藤原博定
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 康和5年12月8日(1104年1月7日) |
別名 | 琵琶冠者 |
官位 | 従五位下・散位 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家高藤流(勧修寺流) |
父母 |
父:行実、母:不詳 養父:藤原知定 |
兄弟 | 博定 |
妻 | 不詳 |
子 | 定俊、博泰、孝博[1] |
藤原 博定(ふじわら の ひろさだ)は、平安時代後期の貴族、雅楽家。八幡寺の寺主である行実の子で、藤原北家良門流、兵庫頭・藤原知定の養子となる。官位は従五位下・散位[2]。
経歴
[編集]民部丞在任中の寛治元年(1087年)に従五位下に叙爵[3]。民部省(民部大輔を務めたとも)に出仕していたことから、民部大夫と称された。管絃の道に長じて応徳4年(1087年)の石清水臨時祭などでは陪従の役を務め[4]、楽所預に任命された。琵琶を藤原孝博に伝えたのをはじめ、他に箏・篳篥・横笛および和歌を伝えて藤原宗忠はその日記で「一道の長者」と評している[5]。康和5年12月8日(1104年1月7日)に備中国で卒去した。年は40余りであったとされる[5]。『古今著聞集』には太鼓の演奏を巡る大神基政との逸話がある。