藤原宗家
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(藤原信能から転送)
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 保延5年(1139年) |
死没 | 文治5年閏4月22日(1189年6月7日) |
改名 | 信能(初名)→宗家 |
別名 | 中御門大納言 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流松木家 |
父母 | 父:藤原宗能、母:藤原長実の娘 |
兄弟 | 頼衡、宗親、尊誉、玄壽、宗家、成能、光能、頼輔、宗命、宗縁、宗隆、宗覚、寛宗、玄修、能忠、藤原季行室 |
妻 |
正室:八条院按察(藤原俊成の娘) 藤原光頼の娘、藤原能定の娘 |
子 | 宗経、宗快、宗厳、後白河院官女、北陸宮室 |
藤原 宗家(ふじわら の むねいえ)は、平安時代後期の公卿。内大臣・藤原宗能の子。官位は正二位・権大納言。
経歴
[編集]保延5年(1139年)、誕生。初名は信能(長寛2年(1164年)まで)。
永治元年(1141年)に従五位下に叙され、久安5年(1149年)に従五位上・侍従に任官。久安7年(1151年)に正五位下に進む。久寿2年(1155年)に右近衛少将に任ぜられ、翌年に従四位下・左近衛少将に任じられ、続いて従四位上に進む。保元3年(1158年)に正四位下・左近衛中将、翌年には蔵人頭を兼ねて頭中将となり、更に中宮権亮を兼ねる。永暦元年(1160年)に参議に任ぜられ、応保2年(1162年)に従三位に進む。長寛2年(1164年)に正三位に進む。
永万2年(1166年)に六条天皇が即位すると、権中納言に任ぜられ、仁安3年(1168年)に中納言に転じる。承安2年(1172年)に従二位、安元2年(1176年)に正二位に進み、治承3年(1179年)に権大納言に任ぜられる。文治5年(1189年)内府(九条良通)の法事に参会[1]、祈年穀奉幣の上卿を務める[2]など、活動をしていたが閏4月に腹病のために薨去。享年51。出家したともいわれる[3]。
父より神楽・和琴の秘伝を継ぎ、松木家(中御門家)を楽道の家として発展させる基礎を築いた。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 永治元年12月26日(1142年1月24日):従五位下(御即位次)
- 久安5年(1149年)2月13日:従五位上(朝覲行幸。皇后宮)、6月6日:侍従
- 久安7年(1151年)正月6日:正五位下(父宗能卿平野大原野行幸行事賞追叙)
- 久寿2年(1155年)4月4日:右近衛少将
- 久寿3年(1156年)正月7日:左近衛少将、4月6日:従四位下(院久安三御給。除目次)
- 保元元年11月28日(1157年1月10日):従四位上(嘉皇門院去年未給。除目次)
- 保元2年(1157年)正月24日:尾張守
- 保元3年(1158年)正月6日:正四位下(美福門院當年御給)、27日:左近衛中将
- 保元4年(1159年)2月21日:中宮権亮、4月6日:蔵人頭
- 永暦元年(1160年)4月2日:参議、左兵衛督
- 永暦2年(1161年)正月23日:丹波権守(下名次)
- 応保2年(1162年)8月17日:従三位(内大臣坊官)
- 長寛2年(1164年)6月15日:宗家に名を改む、閏10月13日:正三位(去年石賀行幸行事賞)
- 長寛3年(1165年)正月23日:右近衛中将
- 永万2年(1166年)越前権守、8月27日:権中納言
- 仁安3年(1168年)8月10日:中納言
- 嘉応2年(1170年)2月11日:服解、4月28日:復任
- 承安2年(1172年)3月29日:従二位(高祖父右大臣俊家永保二八幡賀茂行幸行事賞)
- 安元2年(1176年)3月6日:正二位(御賀行幸行事賞。院御給)
- 治承3年(1179年)10月9日:権大納言
系譜
[編集]脚注
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