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藤原伊勢人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 伊勢人
時代 奈良時代後期 - 平安時代初期
生誕 天平宝字3年(759年
死没 天長4年3月13日827年4月12日
別名 伊勢臣
官位 従四位下治部大輔
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇
氏族 藤原南家
父母 父:藤原巨勢麻呂
兄弟 黒麻呂長川、弓主、真作今河河主、川合、真書、伊勢人貞嗣、瀧麿、主後、広河
不詳
友永
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藤原 伊勢人(ふじわら の いせんど)は、平安時代初期の貴族藤原南家参議藤原巨勢麻呂の七男[1]官位従四位下治部大輔

経歴

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延暦15年(796年)かねてから一堂を建て観音を祀りたいと祈願していたところ、霊夢託宣により鞍馬山に導かれ、同地に毘沙門天像が祀られているのを発見。さらに再度の霊夢により、観音と毘沙門天の同一なることを告げられ、これに深く感銘を受けて同地に伽藍を建立した。これが現在の鞍馬寺の起源となったと伝わる[2][3]。また同年に桓武天皇により造東寺長官に任命され、東寺を建立したともされている。同年阿波守を経て、延暦22年(803年従五位下叙爵

延暦25年(806年平城天皇即位後間もなく安芸守として地方官に転ずる。大同3年(808年斎宮頭に任ぜられ京官に復す。

大同4年(809年嵯峨天皇の即位後に従五位上に昇叙され、翌弘仁2年(811年右中弁に栄転するが、弘仁3年(812年)には早くも因幡守に転じている。弘仁11年(820年正五位下、弘仁13年(822年従四位下と嵯峨朝末になってから俄に昇叙された。

淳和朝の天長4年(827年)3月13日卒去享年69。最終官位散位従四位下。

人物

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性格は几帳面で政務に熟練していた。小作人のような洗練されていないところがあり、やや世情に疎かった。勤務に精励したが、極めて寛容さに欠け、同僚を困らせることがあったという[1]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

  • 父:藤原巨勢麻呂
  • 母:不詳 - 出自は不明だが、『尊卑分脈』によると川合・真書・伊勢人は同母兄弟であるとされる。
  • 妻:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原友永

脚注

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  1. ^ a b 日本後紀』天長4年3月13日条
  2. ^ 『鞍馬蓋寺縁起』
  3. ^ 鞍馬寺ホームページ 歴史
  4. ^ 『尊卑分脈』

出典

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