藤井六輔
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藤井 六輔(ふじい ろくすけ、1874年2月15日 - 1931年5月25日)は、日本の舞台俳優[1]。東京出身で、本名は田中陸助といい、俳名として彩峰、六漁を用いた[1]。
もともと魚屋を家業としていたが、新派の流れを汲む伊井蓉峰に弟子入りして俳優となる[2]。
伊井の一座や、後にそれが合流した静間小次郎の一座で活動し[3]、剽軽な芸風で知られ[1]、「新派の名脇役」ともいわれた[4]。
1931年に、伊井が松竹から独立して「本国劇」を立ち上げた際にもこれに参加したが、「本国劇」は失敗に終わり、程なくして藤井は死去した[6]。
フィルモグラフィ
[編集]1910年に、吉澤商店(日活の前身会社のひとつ)で『サーベル』、『磁石の引力』、『お目出度 』、『浮れ達磨』、『粗忽物』に出演した[7]。
1928年にはマキノ・プロダクションの『忠魂義烈 実録忠臣蔵』に、「そばやの爺〆助」役で出演した[7]。
脚注
[編集]- ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus『藤井六輔』 - コトバンク
- ^ 『別册文藝春秋, 第121-122号』文藝春秋新社、1972年、309頁。「伊井の一座で一カ月働くと、藤井六輔が、見どころがあるから、ここで修行しないかと すすめた。藤井は伊井を崇拝して、日清戦争の時に、それまでの家業の魚屋の荷を、黙阿弥社言の「いかけ松」のように川にほうりこみ、満国の兵隊の役の募集に応じて、弟子に ...」
- ^ 『近代歌舞伎年表京都篇』国立劇場、1999年、302頁。「静間一座に加入する伊井蓉峰 … と共に加入したるは … 福島清・藤井六輔 ...」 Google books - 「明治36年6月」の項
- ^ 永六輔『昭和:僕の芸能私史』朝日新聞社、1999年、7頁。「新派の名脇役藤井六輔」 Google books
- ^ 永六輔『昭和:僕の芸能私史』朝日新聞社、1999年、151頁。「大矢市次郎が、「僕の師匠は藤井六輔だからね、同じ名前の六輔クンを大切にしよう」という ...」 Google books
- ^ 『別册文藝春秋, 第121-122号』文藝春秋新社、1972年、290頁。「昭和六年にはまた、不平があって松竹を離れ、門弟の大矢や小堀を残し、藤井六輔と娘むこの友三郎だけをつれて、独立劇団「本国劇」を作り、公園劇場や市村座に出て、「荒神山」の清水次郎長や「河内山」などを演じた。そのあいだに、藤井を失っている …」 - 引用箇所は伊井蓉峰についての記述。
- ^ a b “藤井六輔”. 日本映画データベース. 2016年7月31日閲覧。