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薛琡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

薛 琡(せつ しゅく、生年不詳 - 550年)は、北魏末から北斉にかけての官僚は曇珍[1][2][3]本貫代郡[4][2][3]

経歴

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薛虎子の子として生まれた。容貌魁偉で、若くして有能で知られ、典客令として任用された。正光年間、洛陽県令を代行した。後に吏部に転じた。ときに吏部尚書の崔亮が人材の賢愚を問わず、年功によって選官の基準とする「停年格」の制度を立てるよう奏上した。薛琡はこれに反対する上書をおこなったが、聞き入れられなかった[5][6]

永安2年(529年)、元天穆邢杲の乱を討つにあたって、薛琡はその下で行台尚書となった。薛琡は邢杲よりも先に酇城に拠る元顥を討つように勧めたが、元天穆は聞き入れなかった。元天穆が邢杲を降して帰途につくと、元顥が洛陽を占領していた。元天穆は薛琡の言を容れなかったことを悔やんだ[7][8]

東魏天平初年、七兵尚書に任じられ、高歓に召されて丞相長史となった。天平4年(537年)、高歓が西魏を討つべく、蒲津で黄河を渡ろうとした。薛琡は兵を諸道に置いて交通を遮断し、野戦を避ければ、食糧難に苦しむ西魏は降伏せざるをえなくなると主張して、渡河を引き止めようとした。高歓は聞き入れず、沙苑の戦いに敗れた[7][9]范陽郡盧仲礼が反乱を起こすと、薛琡は諸軍とともにこれを討って平定した。殷州刺史に転じたが、その統治は厳しく冷酷で、官吏や民衆はこれに苦しめられた。後に度支尚書・殿中尚書を歴任した[9]

武定末年、儀同三司・尚書右僕射に上った[1]天保元年(550年)、死去した。開府儀同三司・尚書左僕射・青州刺史の位を追贈された。は威恭といった[9]

妻子

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  • 于氏(薛琡が張氏を迎えると、離縁された)[10][9]
  • 張氏(東平王元匡の妾であったが、薛琡と姦通し、後妻におさまった)[10][9]

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  • 薛允(後嗣、于氏の子)[9]

脚注

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  1. ^ a b 魏書 1974, p. 1000.
  2. ^ a b 北斉書 1972, p. 369.
  3. ^ a b 北史 1974, p. 921.
  4. ^ 魏書 1974, p. 995.
  5. ^ 北斉書 1972, p. 369-370.
  6. ^ 北史 1974, pp. 921–922.
  7. ^ a b 北斉書 1972, p. 370.
  8. ^ 北史 1974, pp. 922–923.
  9. ^ a b c d e f 北史 1974, p. 923.
  10. ^ a b 北斉書 1972, p. 371.

伝記資料

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参考文献

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  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4