薛琡
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(薛シュクから転送)
薛 琡(せつ しゅく、生年不詳 - 550年)は、北魏末から北斉にかけての官僚。字は曇珍[1][2][3]。本貫は代郡[4][2][3]。
経歴
[編集]薛虎子の子として生まれた。容貌魁偉で、若くして有能で知られ、典客令として任用された。正光年間、洛陽県令を代行した。後に吏部に転じた。ときに吏部尚書の崔亮が人材の賢愚を問わず、年功によって選官の基準とする「停年格」の制度を立てるよう奏上した。薛琡はこれに反対する上書をおこなったが、聞き入れられなかった[5][6]。
永安2年(529年)、元天穆が邢杲の乱を討つにあたって、薛琡はその下で行台尚書となった。薛琡は邢杲よりも先に酇城に拠る元顥を討つように勧めたが、元天穆は聞き入れなかった。元天穆が邢杲を降して帰途につくと、元顥が洛陽を占領していた。元天穆は薛琡の言を容れなかったことを悔やんだ[7][8]。
東魏の天平初年、七兵尚書に任じられ、高歓に召されて丞相長史となった。天平4年(537年)、高歓が西魏を討つべく、蒲津で黄河を渡ろうとした。薛琡は兵を諸道に置いて交通を遮断し、野戦を避ければ、食糧難に苦しむ西魏は降伏せざるをえなくなると主張して、渡河を引き止めようとした。高歓は聞き入れず、沙苑の戦いに敗れた[7][9]。范陽郡の盧仲礼が反乱を起こすと、薛琡は諸軍とともにこれを討って平定した。殷州刺史に転じたが、その統治は厳しく冷酷で、官吏や民衆はこれに苦しめられた。後に度支尚書・殿中尚書を歴任した[9]。
武定末年、儀同三司・尚書右僕射に上った[1]。天保元年(550年)、死去した。開府儀同三司・尚書左僕射・青州刺史の位を追贈された。諡は威恭といった[9]。
妻子
[編集]妻
[編集]子
[編集]- 薛允(後嗣、于氏の子)[9]
脚注
[編集]伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。