コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

蔣夢麟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蔣 夢麟
プロフィール
出生: 1886年1月20日
死去: (1964-06-09) 1964年6月9日(78歳没)
中華民国の旗 中華民国 台湾省
出身地: 清の旗 浙江省紹興府餘姚市
(現:寧波市餘姚市
職業: 政治家・教育者
各種表記
繁体字 蔣 夢麟
簡体字 蒋 梦麟
拼音 Jiǎng Mènglín
ラテン字 Chiang Meng-lin
和名表記: しょう むりん
発音転記: ジアン モンリン
英語名 Dr. Monlin Chiang
テンプレートを表示

蔣 夢麟(しょう むりん、1886年光緒11年12月16日1月20日 - 1964年民国53年〉6月9日)は、中華民国台湾)の教育者・政治家。旧名は夢熊兆賢。号は孟麟

事績

[編集]

アメリカ留学

[編集]

10歳で紹興中西学堂に入学、1899年光緒25年)、一家で上海に移り、蔣夢麟はキリスト教会で英語を学んでいる。翌年、余姚に戻った。1901年光緒27年)、杭州へ赴き、教会附属学校で学習する。翌年、浙江高等学堂に進学し、1903年(民国29年)、県試を受験して秀才となった。1904年(光緒30年)、上海の私立南洋公学に進学している。

1908年(光緒34年)、蔣夢麟はアメリカへ留学し、カリフォルニア大学の農学院、社会科学院で学ぶ。このとき、サンフランシスコの『大同日報』で主筆も務めた。1912年、卒業し、教育学学士号を取得している。続いてコロンビア大学大学院に進学して研究に従事し、1917年6月、哲学博士号の学位を取得した。同年帰国し、上海の商務印書館で編輯として就職している。

北京での活動

[編集]

1918年民国7年)6月、蔣夢麟は商務印書館を退職する。孫文(孫中山)が執筆した『実業計画』の英文原稿を校訂し、さらに江蘇省教育会理事も務めた。翌年、新教育共進社の月刊誌『新教育』の主編となる。同年7月中旬、五四運動の中で辞任を迫られた北京大学校長蔡元培の招聘を受け、蒋が同大学の校務を代理することになり、9月には同大学の教育学教授兼総務庁に任命された。1921年、非公式の身分ながら、観察員としてワシントン会議に出席している。

蒋夢麟別影
Who's Who in China 3rd ed. (1925)

1923年(民国12年)1月、蔡元培が校長を辞任したため、蔣夢麟が校長職務を代理することになった。しかし1926年(民国15年)に学生デモ隊が北京政府に武力弾圧される「三・一八惨案」が起きると、蔣は北京政府から責任を追及されたため、南方へ逃れて国民政府に参加した。1927年(民国16年)5月、蔣は浙江省政務委員会委員兼教育庁庁長、同省政治分会秘書長に任命される。翌月、国立第三中山大学(後の浙江大学)校長となった。

教育事業への取組み

[編集]
蒋夢麟別影
Who's Who in China 4th ed. (1931)

1928年(民国17年)10月、蔡元培の後任として蔣夢麟は国民政府大学院長に任ぜられ、同月に大学院が教育部に改組されると、そのまま部長となっている。翌年1月には首都建設委員会委員も務めた。1930年(民国19年)10月、蔣は教育部長を辞任し、12月、国立北平大学(北京大学)の校長に任命された。1932年(民国21年)、東北政務委員会委員や中華文化教育基金会副董事長も務めている。その翌年には、全国航空建設会委員、華北戦区救済委員会委員にも任ぜられた。

1937年(民国26年)に日中戦争が勃発し、北平・天津が日本軍の手に落ちると、蔣夢麟は北平大学と清華大学南開大学長沙への移転事業に取り組む。これにより国立臨時大学(後にさらに昆明へ移り国立西南聯合大学となる)が成立すると、蒋が校務委員会常務委員に任ぜられた。1939年(民国28年)9月、三民主義青年団中央監察会監察となる。1941年(民国30年)7月、中国紅十字会総会会長となり、1943年(民国32年)4月には中央訓練団教育委員会委員となっている。1945年(民国34年)5月には、中国国民党第6期中央監察委員に選出された。

晩年

[編集]

戦後の1946年(民国35年)6月、最高経済委員会委員となり、10月には行政院綏靖区政務委員会委員に任ぜられた。翌年2月、教育部学術審議委員会委員に任ぜられ、4月、国民政府委員となっている。1948年(民国37年)8月、行政院善後事業委員会主任委員、中国農村復興委員会委員(後に主任委員)に任命された。国共内戦終盤の1949年(民国38年)10月に蔣は台湾に逃れ、引き続き農村復興事業に取り組む。その一環で、1958年(民国47年)には石門水庫建設委員会主任委員を務めた。

1964年(民国53年)6月9日、台湾にて病没。享年79(満78歳)。著書に『中国教育原理研究』、『過渡時代の思想と教育』、『文化的交流と思想的進歩(原題:文化的交流與思想的演進)』などがある。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
中華民国の旗 中華民国
先代
蔡元培
大学院長
1928年10月
次代
(教育部長に改組)
先代
(大学院長から改組)
教育部長
1928年10月 - 1930年12月
次代
高魯