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蔣壱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蔣 壱(しょう いつ、? - 222年)は、中国後漢末期から三国時代武将揚州九江郡寿春県の人。父は蔣欽。弟は蔣休。

生涯

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建安24年(219年)、父が関羽討伐の後に病死した際、孫権は領民二百戸と田地二百をもって、蔣壱と弟の蔣休、彼等の母の面倒を看たといわれる。その後、蔣壱は宣城侯に封ぜられ、父の軍勢を受け継ぎ呉の将として仕えた。

建安26年(221年)、劉備が関羽の仇討ちのために攻めてきた際(夷陵の戦い)には、蜀漢軍の攻勢を防ぐ功績を立てた。

黄武元年(222年)、曹丕が呉に攻め込んで来た時にも、それを迎え撃つため迎撃軍に従軍したが、その最中に陣中で病死した[1]

彼には実子がいなかったため、弟の蔣休がその後を継ぎ軍勢を受け継いだが、後年、罪を犯して資産を失っている。

参考文献

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脚注

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  1. ^ 三国志』呉志 蔣欽伝