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蒲田兼光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
蒲田兼光
時代 南北朝時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 蒲田左近大夫、蒲田冠者
官位 左近大夫
幕府 室町幕府
主君 石塔義房
氏族 石川蒲田氏
父母 父:坂地光広
義光、末光
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蒲田 兼光(かまた かねみつ)は、南北朝時代初期の武将石塔義房奉公衆陸奥石川氏の有力一門、石川蒲田氏の当主。通称、蒲田左近大夫、蒲田冠者。

概要

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兼光は、陸奥石川氏初代の源有光の長男・大寺光佑の七世孫にあたる坂地光広を父とし、陸奥国白河郡の蒲田村(現・福島県古殿町鎌田)を領して蒲田冠者を称した。名門石川氏の有力庶家として活躍した。

兼光は一族の板橋高光と建武2年(1335年)以来北朝足利尊氏に従って奥州等を転戦した。奥州管領吉良貞家からもしばしば所領を安堵されており、使節にも起用されているほか、奥州総大将石塔義房に従い奉公衆としても活躍している。

文和2年(1353年)の宇津峰城攻略では、兼光は柴塚(郡山市栃本)の陣を攻撃して打ち破り、長平城の戦いで子息の蒲田末光が傷を受けた。

後に兼光は嫡子の蒲田義光に蒲田村を相続させ、末光にも一部を与えた。

参考文献

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  • いわき市史(1986)。

関連項目

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