蒲田兼光
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時代 | 南北朝時代初期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 蒲田左近大夫、蒲田冠者 |
官位 | 左近大夫 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 石塔義房 |
氏族 | 石川蒲田氏 |
父母 | 父:坂地光広 |
子 | 義光、末光 |
蒲田 兼光(かまた かねみつ)は、南北朝時代初期の武将。石塔義房奉公衆。陸奥石川氏の有力一門、石川蒲田氏の当主。通称、蒲田左近大夫、蒲田冠者。
概要
[編集]兼光は、陸奥石川氏初代の源有光の長男・大寺光佑の七世孫にあたる坂地光広を父とし、陸奥国白河郡の蒲田村(現・福島県古殿町鎌田)を領して蒲田冠者を称した。名門石川氏の有力庶家として活躍した。
兼光は一族の板橋高光と建武2年(1335年)以来北朝の足利尊氏に従って奥州等を転戦した。奥州管領の吉良貞家からもしばしば所領を安堵されており、使節にも起用されているほか、奥州総大将の石塔義房に従い奉公衆としても活躍している。
文和2年(1353年)の宇津峰城攻略では、兼光は柴塚(郡山市栃本)の陣を攻撃して打ち破り、長平城の戦いで子息の蒲田末光が傷を受けた。
後に兼光は嫡子の蒲田義光に蒲田村を相続させ、末光にも一部を与えた。
参考文献
[編集]- いわき市史(1986)。