董世祉
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董世祉 | |
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職業: | カトリック司祭 |
各種表記 | |
繁体字: | 董世祉 |
簡体字: | 董世祉 |
拼音: | Dǒng Shìzhǐ |
和名表記: | とう せし |
発音転記: | ドン・シーヂー |
英語名: | John Tung Shih-chih |
董 世祉(とう せし、生没年不詳)は、中華民国から中華人民共和国にかけてのカトリック神父。1950年代における中国カトリック教会の“四大才子”(董世祉、張伯達、陳哲敏、沈士賢)の一人でもある。
経歴
[編集]董世祉の原籍は四川省で、上海に生まれ、上海で学業及び修道生活を始め、その後北京に行ってベネディクト会に入会し、山東省のある教区に転入した。自費でスイスに留学して神学を学び、そこで神父になった[1]。1936年に于斌が司教に任じられた南京教区に加わり、日中戦争中は後方に行って働いた。戦後は上海に戻り、リベリ大司教を助けて天主教教務協進委員会の成立の準備をし、協進会教理講座組組長に任じられた[2]。
1951年6月23日(イエズスの聖心の祝日の主日)に、董世祉は重慶市のカトリック教徒の集会で“两全其美、自我牺牲”(両方を満足させ、自己を犠牲にする)という演説を発表し、公に霊魂を天主に捧げ、肉体を国家に捧げることを表明した。
「 | 今日、我々は教皇の代表であるリベリ大司教を攻撃しようとしている。明日は我々はイエズスの代表である教皇を攻撃するだろう。後日どうして我々が天主を攻撃しないでいられるだろうか? | 」 |
そして「リベリ大司教の忠実な走狗」だと批判された[3]。逮捕されてから間もなく行方不明となった。7月1日、重慶市は天主教青年座談会を開き、董世祉の三自愛国運動に対する言論を批判した。50名余りのカトリック青年信徒が座談会に参加した[4]。
参考文献
[編集]- ^ 顾卫民:《中国天主教编年史》、第524页、上海书店出版社、2003年4月、ISBN:7-80678-007-6
- ^ 阮仁泽、高振农等主编:《上海宗教史》、第750页、上海人民出版社、1989年
- ^ 驱逐黎培里是中国人民反帝斗争的又一胜利
- ^ 1950-1979年重庆青年运动大事记、1951年