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董世祉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
董世祉
職業: カトリック司祭
各種表記
繁体字 董世祉
簡体字 董世祉
拼音 Dǒng Shìzhǐ
和名表記: とう せし
発音転記: ドン・シーヂー
英語名 John Tung Shih-chih
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董 世祉(とう せし、生没年不詳)は、中華民国から中華人民共和国にかけてのカトリック神父1950年代における中国カトリック教会の“四大才子”(董世祉、張伯達陳哲敏沈士賢)の一人でもある。

経歴

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董世祉の原籍は四川省で、上海に生まれ、上海で学業及び修道生活を始め、その後北京に行ってベネディクト会に入会し、山東省のある教区に転入した。自費でスイスに留学して神学を学び、そこで神父になった[1]1936年于斌が司教に任じられた南京教区に加わり、日中戦争中は後方に行って働いた。戦後は上海に戻り、リベリ大司教を助けて天主教教務協進委員会の成立の準備をし、協進会教理講座組組長に任じられた[2]

1951年6月23日イエズスの聖心の祝日の主日)に、董世祉は重慶市のカトリック教徒の集会で“两全其美、自我牺牲”(両方を満足させ、自己を犠牲にする)という演説を発表し、公に霊魂を天主に捧げ、肉体を国家に捧げることを表明した。

今日、我々は教皇の代表であるリベリ大司教を攻撃しようとしている。明日は我々はイエズスの代表である教皇を攻撃するだろう。後日どうして我々が天主を攻撃しないでいられるだろうか?

そして「リベリ大司教の忠実な走狗」だと批判された[3]。逮捕されてから間もなく行方不明となった。7月1日、重慶市は天主教青年座談会を開き、董世祉の三自愛国運動に対する言論を批判した。50名余りのカトリック青年信徒が座談会に参加した[4]

参考文献

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  1. ^ 顾卫民:《中国天主教编年史》、第524页、上海书店出版社、2003年4月、ISBN:7-80678-007-6
  2. ^ 阮仁泽、高振农等主编:《上海宗教史》、第750页、上海人民出版社、1989年
  3. ^ 驱逐黎培里是中国人民反帝斗争的又一胜利
  4. ^ 1950-1979年重庆青年运动大事记、1951年