葆康
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葆康 | |
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『満洲国警察史』(1942年刊行) | |
プロフィール | |
出生: | 清光緒18年[1] |
死去: |
1944年(康徳11年)1月1日[1] 満州国新京特別市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府遼陽県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 葆康 |
簡体字: | 葆康 |
拼音: | Bǎo Kāng |
ラテン字: | Pao K'ang |
和名表記: | ほこう |
発音転記: | バオカン |
葆 康(ほ こう、中国語: 葆康; 拼音: Bǎo Kāng; ウェード式: Pao K'ang)は中華民国・満州国の政治家。別号は鏡泉。
事績
[編集]1914年(民国3年)[2]に東三省講武堂を卒業後、東三省兵工廠副官から昇進していく。1927年(民国16年)8月24日に陸軍軍需監兼軍需総監銜に任命されるなど[3]、軍需関係庁の「最高首脳者」として旧奉天派内で重きをなしたとされる[4]。1931年(民国20年)3月、張学良から東省特別区政務庁庁長に任命された[5]。これら以外にも、奉天督軍公署軍務科長、東省特別区行政長官公署高等顧問等を歴任したとされる[2]。
1932年(大同元年)3月9日に満州国が正式に建国されると、翌10日に葆康は民政部次長に任命され[6]、総長の臧式毅を支えた。1934年(康徳元年)12月1日、臧が兼務していた奉天省長に葆康が後任として充てられた[4]。1938年(康徳5年)7月、奉天省長を退任、金栄桂が後任となった[7]。同年中に満州興業銀行副総裁に転じ[2]、翌1939年(康徳6年)2月23日には生活必需品会社取締役社長も兼任している[8]。
興銀副総裁在任中の1943年(康徳10年)に脳溢血で倒れ、翌1944年(康徳11年)1月1日、新京特別市にて死去[2]。
注
[編集]- ^ a b 「葆興銀副総裁」『満洲日日新聞』康徳11年(1944年)1月5日、3面より。光緒18年であれば、西暦は1892年か1893年のいずれかとなる。しかし同記事は「享年51」としているため、1892年と1893年のいずれでも、数え年では享年51とはならない(ただし、享年が満年齢だとしたら1893年で合う)。この他、「新省長と総務庁長 その一」『満州日報』康徳元年(1934年)11月20日では、葆康が「光緒十一年七月生れだから本年四十六歳」と報じている。しかし「光緒十一年(1885年)7月」が正しいのであれば数え年で「本年50歳」でなければならず、「本年46歳」が正しいのであれば「光緒15年(1889年)」でなければならない。
- ^ a b c d 「葆興銀副総裁」『満洲日日新聞』康徳11年(1944年)1月5日、3面。
- ^ 『政府公報』第4054号、1927年(民国16年)8月5日、2頁。
- ^ a b 「新省長と総務庁長 その一」『満洲日報』康徳元年(1934年)11月20日。
- ^ 劉国銘主編(2005)、2260頁。
- ^ 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。
- ^ 劉寿林ほか編(1995)、1188頁。
- ^ 「必需品会社設立過程とその推移への一考察【三】・【四】」『満洲日日新聞』康徳6年(1939年)6月16・17日。
参考文献
[編集]- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
満州国
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