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華僑強制献金

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

華僑強制献金(かきょうきょうせいけんきん)とは、1942年3月から6月にかけて、日本軍(第25軍)占領下のマラヤ各州やシンガポール(昭南特別市)ならびに日本軍(第37軍)占領下のボルネオ島で、軍政部が、華僑協会などの対日協力組織を通じて中国系住民に強制した、日本軍への献金のこと。単に華僑献金強制献金献金事件、特にマラヤ・シンガポールでは目標とした献金額から5,000万ドル強制献金(ごせんまんどるきょうせいけんきん)とも呼ばれる。[1]

5,000万ドル強制献金

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経緯

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身代金の要求

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1942年3月初旬、マライ軍政部次長・渡辺渡大佐配下の高瀬通[2]は、軍政部で対日協力団体・昭南華僑協会の代表・林文慶博士ら協会幹部に対して、「中国・国民政府を支援し、英軍に協力して日本軍に仇なした華人は本来皆殺しにするところであるが、罪を贖うことを行動で示せば赦してやる」として、日本軍への献金を要求した[3][4][5]。華僑協会の幹部たちは、高瀬に献金を行う意思を伝え、高瀬の「上層部に伝え、追って指示する」との話を信じて指示を待った[6]。その間に、華僑協会の事務所が置かれていた吾廬倶楽部などから資産家の華人が次々に憲兵隊に連行され、Y.M.C.A.や中央警察署で拷問を受けているというニュースが伝わってきた[6]

数日後、華僑協会の連絡会員約50名は、ナッシム路(Nassim Road)[7]にあった軍政部の宿舎に呼び出され、渡辺・高瀬から、改めて、5,000-6,000万ドルの現金を日本軍に献金すれば、身の安全と財産の保全を約束し、国民政府に献金を行い英軍に協力した罪を不問に付す、と献金するよう提案を受けた[6][8]

賦課額の決定

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渡辺・高瀬との会談の後、華僑協会では資金を集める方法について話し合いが持たれた[6]。銀行家だった陳永謙(Tan Ean Khiam)は、「戦前英国がマラヤで発行したドル紙幣は2億2,000万ドルしかないので、5,000万ドルもの巨額の資金を集めるのは難しい」との意見だった[6]。しかしそれでも総額が5,000万ドルとなるように各州に献金額が割り振られた[9][10]。会合で、海峡植民地生まれの華人のグループは、資産額に比例して献金額を賦課することを提案したが、中国生まれの華僑のグループはこれに反対し、資産が3,000ドル未満であれば賦課を免除し、資産が3,000ドル以上であれば総資産の8%を献金額とすることを提案して、この案が採用された[11][12]

陸軍省の追認

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1942年3月21日に、陸軍省当局は、第25軍軍政部に対し、強制献金が各民族対策との整合性を欠き、大東亜共栄圏防衛費用を原住民に課す計画に支障をきたす、と懸念を表明し、措置を容認するが以後は大局的に考慮するようにと勧告し、また5,000万ドルの使途について説明を求めた[13]

同月27日に第25軍軍政部は、5,000万ドルは法外な額ではなく計画には支障を来たさないと釈明し、使途について、国庫供託金、「建設公債」発行資金等7項目[14]に充当すると回答、これを受けて陸軍省当局は同月28日に配分・使途の了承を伝えた[13]

献金集め

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銀行資産が日本軍によって凍結されており、支払に充分な現金の用意のある人は少なかったため、献金の割当額を支払うために家財を安値で売り払ったり、不動産を安値で処分したりしたケースが多く、華人が耐え忍んだ苦痛は、占領直後の集団検問に勝るとも劣らなかった、とされる[15][16]

3月末の締切を前に、集金活動の進捗情況を確認したところ、シンガポールで集められた献金額は目標額の3割程度だった[17]。軍政部は各州の華僑協会の指導者をシンガポールに集めて会議を開催し、月末までに必ず目標額を集めるように指示した[18][19][20]

3月末までに集められた献金は、シンガポールで目標額の30%、他州ではそれ以下だったが、軍政部・渡辺次長は華人の金銭的な逼迫を知りつつも、軍事献金の推進に固執し、締切を4月25日に延期した[6]

『華僑工作実施要領』

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1942年4月8日付で軍政部次長から軍政部長に昇進した[21]渡辺は、同月19日付で、それまでに何度か発出されていた献金指令と華僑対策の統一見解として、マレー・スマトラ各州の長官あてに、極秘通達『華僑工作実施要領』[22]を発出した[23]。同通達は、それまでの「誘引工作」による華僑対策を転換し、占領地域で日本軍に協力しない華僑には「断固その生存を認めざるものと」し、シンガポール等主要都市の有力華僑全体に「最低5,000万ドルの資金調達を命」じ、これに協力しない者には財産の没収、一族の追放など「極めて峻厳なる処断を持って処理」し、「反抗の徒に対しては極刑を以て之に答え」る、という強硬な内容だった[24][25]

同月20日に集金情況の点検が行われたが、献金額は目標額に遠く及ばなかった[6]。高瀬は再度各州の華僑協会の代表をシンガポールの吾廬倶楽部に集め、目標額の集金に失敗したと各州の代表を詰った[6]。締切は6月25日に再度延期された[6]

決着

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1942年6月20日に各州の代表はシンガポールに集められた[6]。このときまでに集められた献金額は2,800万ドルだった[26][27]黄堆金を介して高瀬と協会代表の交渉が繰り返され、最後は高瀬が軟化して協会が2,200万ドルを横浜正金銀行からの借入金で賄うことを許し、借入金は1年以内に6%の利息を付けて返すことになり、各州の代表が借入金返済の保証人となることで決着した[6]

献金奉納式

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1942年6月25日[28]に、フラトン・ビルの軍政部の一室に華僑協会の代表ら華人約60人が集められ、渡辺・高瀬ら軍政部要人の立会いの下、第25軍司令官・山下中将に5,000万ドルの小切手を渡す儀式が行われた[6]

華人たちは立ったまま1時間以上山下の入場を待ち[29]、山下が入場して会場の舞台に立つと、華人を代表して林文慶博士、クアラルンプールの華僑協会会長・黃鐵珊(Wong Tet San)およびペナンの同会会長・連裕祥(Heah Joo Siang)が前に進み出て、林博士が献辞を読み上げ[30]、5,000ドルの小切手を山下に手渡した[6]。受納した山下は、「華僑のこれまでの援蒋、親英行為の罰から救うものではない。華僑が今後しなければならぬことは日本軍と協力することである」と警告し[31][32]、対英米戦争の目的や日本人の道徳的美徳、強さなどについて1時間近く演説したとされる[33][34]

弁済と賠償

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戦後、華僑協会への2,200万ドルの貸付金は、当時の横浜正金銀行[35]によって弁済不要とされたが、2,800万ドルの献金は返還されないままとなった[36]。華僑団体は、対日賠償請求の中で、日本に対して強制献金の返還を請求していくこととなった[37]

影響・評価

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  • 実施当時から、陸軍省の内部では強制献金は軍政の目的とする民心把握の原則にもとると文官から異論があり、省内の一部の軍政担当者からは5,000万円を受け取るべきではないという強い反対の意見もあった[38]
  • 事件収束の数ヵ月後、渡邊は、この問題には反対や批判もあったが、数年経過しないと冷静な評価はできない、私は「華僑を利用する」考えが華僑尊重論になり、逆に華僑に利用されるようになることを懸念している、と回想している[39]。また戦後1966年7月9日に明石がインタビューした際には、「少しやり過ぎたかなあ」と漏らしたとされる[40]
  • 1942年7月に軍政監部警察部長として着任した大谷敬二郎憲兵大佐は、戦後の回顧録の中で、事件が民心把握に支障をきたして華僑の協力を得ることが一層困難になり、抗日ゲリラにうってつけの反日材料を与え、結束を強くしたほか、インド人やユーラシアン社会にも次は自分たちではないかという不安感を抱かせたとし、マライ軍政失敗の根源になったと評価している[41]
  • シンガポール市政会 (1986, p. 34)は、華僑献金によって悪化した中国人の対日感情はその後3年半の占領期間を通じて市政にとっての重しとなり、軍の強圧的態度のために現地自活の達成に必要な中国系住民の協力を引き出す上での障害となり、また抗日ゲリラに活動の名分を与え、その勢力を増大させる危険を生み、治安維持上もマイナスになったと評価している。
  • 明石 (2001, p. 45)は、短期的には軍政初期の財源となり財政負担を軽減できたかもしれないが、長期的には華僑粛正と共に献金事件はマラヤ軍政史に残る汚点となったことは否めない、と評価している。

北ボルネオの華僑献金

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北ボルネオでは、1942年7月に、ボルネオ守備軍司令官・前田利為中将の命令で、サバサラワクブルネイから華僑指導者[42]が集められ、ボルネオ守備軍司令部・馬奈木敬信参謀長が「反日行為を赦してやるから国防献金で報いよ」と演説して「当地の経済的な微弱性」を考慮した結果としてマレー半島の1人20ドル(対象250万人で合計5,000万ドル)より低い1人15ドル、計300万ドルの献金目標額と、州別の割当額が設定された[43]

脚注

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  1. ^ この記事の主な出典は、明石 (2001, pp. 39–45, 78–81)、原 (1987, pp. 90–93)、篠崎 (1976, pp. 60–70)、陳 & 1973-07-31篠崎 & 1972-09-12篠崎 & 1972-09-11Tan & 1947-06-13およびTan & 1947-06-12
  2. ^ 軍政部の総務部秘書科に所属し、同年2月下旬に設立された華人の対日協力団体・昭南華僑協会の顧問となっていた(Tan & 1947-06-12
  3. ^ Tan & 1947-06-12.
  4. ^ 篠崎 (1976, pp. 60, 61)は、3月1日付でマライ軍政部部長・馬奈木敬信が突然転出になり、かわって軍政部部長となった渡辺によって献金の強要が行われた、としているが、原 (1987, p. 91)は、馬奈木のボルネオ守備軍参謀長転出は同年4月10日付であることから3月1日付での異動に疑問を呈しており、第25軍軍政部 (1942)によれば渡辺の軍政部長昇進は同年4月8日とされている。また篠崎 (1976, pp. 62–63)では、篠崎護は3月上旬に渡辺に呼び出されて華僑協会を軍政部の直轄とするので市政庁に属する篠崎は協会に関与しないようにと厳命され、それ以来協会を離れたため、その後で献金の強制が行われるとは「夢想だにしなかった」としているが、前述のとおり渡辺の軍政部長昇進は4月初旬の出来事で、それより前の馬奈木軍政部長時代に献金の強要は開始されており、華僑協会は当初から(すなわち、篠崎が協会に関与していた時期に)献金を推進していた、と考えられている(原 1987, p. 91、陳 & 1973-07-31)。また篠崎 & 1972-09-12では、篠崎は、「献金の対象者」のリストを作成して華僑協会の理事長で「献金主任」となっていた呂天保に渡し、その後は協会から遠ざかった、としている。
  5. ^ 篠崎 (1976, p. 63)は、軍政部は、英国時代に発行された海峡ドル英語版が市中に相当量隠匿されていると考え、軍票の浸透のためにこれを回収し、華僑が行った抗日献金を帳消しにする代わりに日本軍へ献金させることを考え出した、としている。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m Tan & 1947-06-13.
  7. ^ Google Maps – Nassim Road, Singapore (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc. 2016年4月7日閲覧
  8. ^ 陳 & 1973-07-31は、高瀬の要求額は1億元で、そのうち5,000万元を4月末までに納付するよう命令された、としている。
  9. ^ Tan & 1947-06-13。内訳は、
    シンガポール 10(百万ドル、以下同じ)
    セランゴール 10
    ペラク 8
    ペナン 7
    マラッカ 5.5
    ジョホール 5
    ヌグリスミラン 1.5
    ケダ 1.1
    パハン 0.9
    クランタン 0.5
    トレンガヌ 0.3
    プルリス 0.2(同)。
  10. ^ 篠崎 (1976, p. 65)では、天長節(4月29日)前後に割当てが発表された、としている。
  11. ^ Tan & 1947-06-13。日本軍は、海峡植民地生まれの華人は市政庁(篠崎護)、中国生まれの華僑は軍政部(高瀬、黄堆金)の所管とし、2つのグループは華僑協会の主導権を巡って争っていた(Tan & 1947-06-12)。
  12. ^ 篠崎 (1976, p. 63)は、高瀬が、財産の8%を献納させ、目標額を5,000万ドルとする案を協会に提示した、としている。
  13. ^ a b 明石 2001, pp. 43–44.
  14. ^ 国庫供託金 1,500万円
    難民救済住民供託基金、当初3ヶ月間の民政管理補助金 500万円
    民族、文化、産業、経済、その他基本的研究費 300万円
    道路、港湾施設、橋梁復旧費 1,000万円
    南方建設を目的とした青年人材養成教育機関設置、維持費300万円
    「建設公債」発行資金1,000万円
    華僑銀行再開資金400万円
    明石 2001, pp. 43–44)
  15. ^ Tan & 1947-06-13。1例として、林博士への献金の割当額は2,200ドルだったが、林博士は支払いに充てるだけの現金を持っていなかったため、最終的にかつての彼の教え子に献金を立て替えてもらっていた(同)。
  16. ^ 篠崎 (1976, p. 65)は、英国が降伏直前に1億ドルの紙幣を焼却し、地元の銀行は閉店したままだったため、現金が手許になかった、としている。また同書では、軍政部が地元の銀行の開店を許可し、南方開発金庫から軍票を借り入れて営業を再開させた、としている
  17. ^ Tan & 1947-06-13。高瀬は協会の指導者を叱咤し、特に華人グループの献金額が少ないと聞いて同グループの分科会の会長を一時監禁した(同)。
  18. ^ Tan & 1947-06-13。会議後、マラッカ州の代表2人が、同州の経済規模に比して割当額が大きすぎ、目標額を集められないと説明しようとしたところ、軍司令官の事務所で拘束され、監禁された(同)。2人は黄堆金のとりなしにより解放されたが、以後献金活動に敢えて抗議する者はいなくなった(同)。
  19. ^ 篠崎 (1976, p. 64)では、3月下旬の会合で各州の華僑協会に献金が指示された、としている。
  20. ^ 当時昭南タイムズ編集長だった井伏鱒二は、この会議の様子について「折から私は、昭南タイムズの責任者として華僑記者とユーラシアン記者を連れ、キャセイ・ビル英語版の大東亜劇場で開かれたマレー各州の華僑協会の登録代表者たちの招かれている会に出席した。華僑たちは白けきっているような様子に見えた。華僑たちのうち舞台に出て演説したのは華僑協会長の林文慶博士1人だけで、しかも声が小さいので後ろの方の席には聞えなかった。連れの記者たちも通訳してくれなかった。」と記している(井伏 1998, pp. 271–272)。
  21. ^ 第25軍軍政部 1942.
  22. ^ 軍政施行上の諸規定方針 計画領等綴 昭17.2.13~19.1.30 3.華僑工作実施要領 日附なし 第25軍軍政部 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C14060608800 
  23. ^ 篠崎 1976, pp. 68–70.
  24. ^ 篠崎 (1976, pp. 68–70)。通達内容の受け止め方は各州の長官によってまちまちで、例えばペラ州では通達どおりの政策を実施したため住民の反感を買い、マレー半島でも最も反日感情が強い地域となった、という(同)。
  25. ^ 渡辺は、フラトン・ビルに軍政部を移した、とされる(篠崎 1976, p. 61)。
  26. ^ Tan & 1947-06-13。一部は現金(海峡ドル)ではなく、金地金やゴムで納付された(同)。
  27. ^ 篠崎 (1976, p. 66)は、シンガポールに割り当てられた1,000万ドルは集まったが、各州ではなかなか目標額に達せず、特に献金の少なかったマラッカ州ペラ州では責任者が度々留置された、としている。
  28. ^ 山下奉文が第25軍司令官から転出する1週間前(明石 2001, p. 43)
  29. ^ 待っている間に林博士が失神した(Tan & 1942-06-13)。篠崎 (1976, p. 67)は、林博士は山下に小切手を渡した後に脳貧血を起こして倒れ、式場から運び出された、としている。
  30. ^ 篠崎 (1976, p. 67)は、献辞は高瀬によって8回も修正を命じられ、内容も侮辱的なものだった、としている。
  31. ^ 明石 (2001, p. 43)。Chin, Kee Onn (1946). Malaya Upside Down. Jitts. p. 83 からの引用として。
  32. ^ 洪 1986, pp. 20–21.
  33. ^ Tan & 1947-06-13。山下は、「日本人は神(天皇)の子孫であり、欧米人はダーウィンが充分に説明しているように猿の子孫である。神と猿が戦争をしたとき、どちらが勝つかはどんなバカでも分かるだろう」と言って話を締め括った(同)
  34. ^ 馬 (1986, pp. 145–148)では、1942年7月初め頃、南天バザールの「大和劇場」(後の大華劇場)で、歌や踊りの余興付きで献金奉納式の余興が行われ、林文慶博士は式典の前から「たえず入口のほうに歩いたり、また舞台に上がったり、そうかと思えば舞台から降りてまた入口のほうに歩いたりしていた。しかも、酔っ払ったように、歩きながら歌ったり踊ったりはねたりして、とても見ていられない醜態だった」といい、山下泰文中将の入場・登壇後、「何かふたこと、みこと口にしながら」小切手を差し出し、受け取った山下は「簡単に何かしゃべった」。式典が終了した後も林博士は「何回もペコペコし、体の震えも止まらなかった。山下が会場から出て行っても、林はまだ頭を上げようとしなかった」としている。
  35. ^ 支店長は武藤周太郎篠崎 1976, pp. 67–68)または藤岡太郎明石 2001, p. 80)。
  36. ^ 篠崎 1976, pp. 67–68.
  37. ^ 菊地 1999, pp. 126–127, 135–136.
  38. ^ 明石 2001, p. 43.
  39. ^ 明石 2001, pp. 44–45.
  40. ^ 明石 2001, pp. 72, 80.
  41. ^ 明石 2001, p. 45.
  42. ^ 同軍占領地区では、これより後の1942年8月に華僑協会が結成された(原 1987, pp. 91–92)。
  43. ^ 原 1987, pp. 91–92.

関連項目

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参考文献

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