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膳部菩岐々美郎女

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菩岐岐美郎女から転送)

膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ、? - 推古天皇30年2月21日622年4月7日))は、飛鳥時代女性聖徳太子。膳大娘(女)[1]、高橋妃[2]などとも書かれる。

出自

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6世紀から7世紀伴造として活躍した豪族膳氏の出身で、膳臣傾子(加多夫子とも、かしわでのおみかたぶこ)の娘[3]。妹に聖徳太子の弟久米王の夫人となった膳比里古郎女がいる[4]

経歴

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推古天皇6年(598年)聖徳太子の妃となる[1]。四男四女[5]を生んだが、そのうちの舂米女王(つきしねのひめみこ)は異母兄である山背大兄王の妃となった[3]。聖徳太子には信頼され、太子は「死後は共に埋葬されよう」と言ったと伝えられる[1]。推古天皇30年(622年)聖徳太子と共に病となり、太子が亡くなる前日(旧暦2月21日)に没した。聖徳太子の墓所である磯長陵(しながりょう)に合葬された[6]

参考文献

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  • 坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年、ISBN 4642022430
  • 竹内理三他編『日本古代人名辭典』第二巻、吉川弘文館、1959年、ISBN 4642020020

出典

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  1. ^ a b c 聖徳太子伝暦
  2. ^ 上宮太子拾遺記』所引『四天王寺障子伝
  3. ^ a b 上宮聖徳法王帝説
  4. ^ 上宮太子平氏伝雑勘文』所引『上宮記
  5. ^ 『平氏伝雑勘文』所引『上宮記』は三男四女に作る
  6. ^ 法隆寺金堂釈迦三尊像光背