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菊西繁樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

菊西 繁樹[1](きくにし しげき、1878年(明治11年) - 1945年(昭和20年))は、大阪生田流菊筋)箏曲家、野川流三絃家。本名は中西定吉。

1878年8月23日兵庫県西宮生まれ。酒樽製造を営む中西武右衛門(屋号:樽屋)の六男として生まれる。幼児病気で失明し、箏・三絃を西宮の伯父西原検校から手ほどきを受け、のち大阪の二代菊仲検校に師事、1897年(明治30年)免許皆伝、1914年(大正2年)に大検校となった。菊塚与市が兄弟子、菊仲米秋が弟弟子にあたる。宮城道雄を三味線の弟弟子にあたる二代中島検校に紹介した。

1900年(明治33年)金中きくと婚姻、一男四女を設けた。 神戸市花隈の自宅で多くの弟子を養成、菊茂琴昇、菊端園子、菊艶操山、菊澤松風[2][3]がその門下。

兵庫県箏絃連盟初代会長。長女麻子に幼少の折から芸道を伝えていたが、1936年(昭和11年)37歳で死去。 四女菊西正子がその後を継いだ。名代「九つ折」を始め楽器の蒐集でも知られていたが、神戸大空襲で全て焼失。

余技として、八雲琴・バイオリンも弾いた。芝居・野球等に出かけたり、山登りも好きで琴屋の若いものに連れて行って貰っていた。 多くの作・編曲作品があるが、「菊の名残り」は麻子の追善会のために作られた。

1945年(昭和20年)11月7日急性心臓麻痺で死去。菩提寺は浄土宗花崗山福徳寺(神戸市花隈)。戒名は成就院大検校菊西繁樹居士。 1977年(昭和52年)11月7日の33回忌の法要では正子が「袖の露」を演奏した。

脚注

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  1. ^ 邦楽の友(1985年4月)「道」欄(「父・菊西繁樹」菊西正子著)
  2. ^ 『現代・邦楽名鑑 第1』邦楽と舞踊社出版部、1966年、347頁。 
  3. ^ 最初に師事した千代沢検校と後に師事した菊西検校の両師の名を一字ずつ貰って菊沢検校と号した。1963年1月当道音楽会の社団法人への改組に活躍し、改組と同時に初代理事長に就任。