菅沼定吉
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文22年(1553年) |
死没 | 慶長11年7月17日(1606年8月20日) |
別名 | 新三郎、藤十郎、越後守 |
戒名 | 法名:浄空 |
墓所 | 武蔵国比企郡唐子村(現:埼玉県東松山市上唐子)浄空院 |
官位 | 従五位下 |
主君 | 徳川家康、徳川秀忠 |
氏族 | 菅沼氏 |
父母 | 父:菅沼定氏、母:某氏 |
妻 | 小栗忠政娘 |
子 | 定俊、筧政次妻、定則 |
略歴
[編集]徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いに参加。以後、田中城攻め・長篠の戦い・長久手の戦いに参加。
天正18年(1590年)の関東転封に際して武蔵国比企郡埼玉郡、下総国匝瑳郡の内、合わせて三千五十石を領する。最初期の大番頭として、文禄の役において家康の名護屋駐屯に従う。
帰国後の慶長始めに大番が家康・秀忠間に分割され、秀忠麾下となり関ヶ原合戦でも従う。慶長11年7月17日死去、54歳。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第302