荘孝帝姫
荘孝帝姫 | |
---|---|
続柄 | 仁宗第一皇女 |
称号 | 楚国大長公主(追贈:荘孝大長帝姫) |
身位 | 公主→長公主→大長公主 |
出生 |
宝元元年(1038年) |
死去 |
熙寧3年1月7日 (1070年2月26日) |
配偶者 | 李瑋 |
父親 | 仁宗 |
母親 | 昭節貴妃 |
荘孝帝姫(そうこうていき)は、北宋の仁宗の長女。周国陳国大長公主(しゅうこくちんこくだいちょうこうしゅ)とも。
経歴
[編集]才人苗氏(後の昭節貴妃。仁宗の乳妹)の娘として生まれた。機知に富み、父の仁宗に孝事した。宝元元年(1038年)に生まれ、宝元2年(1039年)9月11日に福康公主に封ぜられた。嘉祐2年(1057年)6月、兗国公主に進封された。
仁宗は不遇であった実母の李宸妃を哀れに思い、公主を李宸妃の甥(弟の李用和の次男で、仁宗の従弟)の李瑋に降嫁させた。李瑋は画に才能があったが、貧民の出身で、容貌は醜く、朴訥な性格であった。公主は李瑋を家奴と見なし、また昌黎郡君韓氏(公主の乳母)ら下人たちも李瑋に対して酷薄であった。その後、美少年の内臣の梁懐吉が公主の寵愛を受けた。嘉祐5年(1060年)、李瑋の母の楊氏は、公主と梁懐吉の酌交する様子を覗き見た。公主は激怒し、楊氏を殴り倒した。さらに、真夜中に皇宮の門を開かせ参内し、怒りをこめて父帝に告発した。
司馬光らの官員が公主の下人たちの過ちと訴えて、昌黎郡君韓氏ら10人の下人が宮外に追放され、梁懐吉は園陵の奉仕にあたらせた。公主は怒り狂い、放火して皇宮を焼くと自殺をほのめかし、無理矢理に梁懐吉の召還を要求した。仁宗はやむなく、梁懐吉らを召還した。公主の母の苗氏は友人の兪充儀(後の徳妃。夭折した皇長子趙昉と皇次女荘和帝姫の母)と計略を用い、内臣の王務滋を派遣して駙馬府に入り込ませ、李瑋の罪過をスパイさせた。しかし李瑋は慎ましやかで、罪過が全くうかがえなかった。苗氏は焦って李瑋を毒殺しようと謀ったが、曹皇后に制止された[1]。
嘉祐7年(1062年)3月、公主は沂国公主に降格され、李瑋と離婚した。同年11月、また岐国公主に進んだ。治平元年(1064年)6月、再従兄の英宗により越国長公主に進封された。治平4年(1067年)5月、神宗により楚国大長公主に進封された。
熙寧3年正月7日(1070年2月26日)、病没した。秦国大長公主の位を追贈された。元符3年(1100年)3月、徽宗から周国陳国大長公主の位を追贈された。政和4年(1114年)12月、荘孝大長帝姫の位を再追贈され、「明懿」と諡された。
脚注
[編集]- ^ 『続資治通鑑長編』仁宗体天法道極功全徳神文聖武睿哲明孝皇帝嘉祐七年(遼清寧八年):二月癸卯,詔兗国公主入内、安州観察使、駙馬都尉李瑋知衛州。瑋所生母楊氏帰其兄璋、公主乳母韓氏出居外、公主宅句当内臣梁懐吉帰前省、諸色祗應人皆散遣之。懐吉等既坐責、公主恚懟、欲自盡、或縦火欲焚第、以邀帝必召懐吉等還。帝不得已、亦為召之。諫官楊畋、司馬光、龔鼎臣等皆諫、帝弗聽。然公主意終悪瑋、不肯復入中閤、状若狂易、欲自盡数矣。苗賢妃與兪充儀謀、使内臣王務滋管句駙馬宅、以伺瑋過。瑋素謹、務滋不得其過、乃告苗、兪曰:「但得上旨,務滋請以巵酒了之。」苗、兪白帝。帝不答。頃之、帝與皇后同坐、兪又白之。皇后曰:「陛下念章懿太后、故瑋得尚主、今奈何欲為此?」都知任守忠在旁曰:「皇后之言是也。」務滋謀訖不行、尋有是命。
伝記資料
[編集]- 『宋史』
- 『宋会要輯稿』
- 『封福康公主制』
- 『冊長女兗国公主文』
- 『皇女兗国公主降封沂国公主制』