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荒木清長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

荒木 清長(あらき きよなが、生没年不詳)は、戦国時代武将波多野氏の家臣。通称は新兵衛尉、山城守[注釈 1]

略歴

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丹波守護と呼ばれた丹波の実力者[3]波多野秀忠の被官[4]。波多野一族の波多野秀長秀親と同様、秀忠の重臣であり、船井郡代に任じられていた[4]

天文元年(1532年)7月頃、秀忠は細川晴元陣営から細川高国方へと寝返ったが、清長はそれに従わなかったためか郡代職を取り上げられており、天文3年(1534年)7月、波多野秀親が船井郡代に任命された[5]。天文4年(1535年)7月頃に秀忠が晴元方に戻ると、天文5年(1536年)4月、清長は船井郡代に再補任された[5]

天文5年(1536年)12月、秀忠は幕府御料所の桐野河内を伊勢兵庫助代に引き渡すよう清長に遵行している[6][7]。しかし、秀忠・清長は幕府御料所を侵し、天文10年(1541年)5月には、御料所の桐野河内・美濃田保への違乱を停止するよう細川晴元から求められた[6][1]。この時、清長が桐野河内・美濃田保に譴責使を派遣しようとしていたことや、熊崎村が桐野河内に含まれるかどうか秀忠が清長に尋ねている[8]ことなどから、桐野河内などの現地支配は清長が行っていたものと考えられる[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 天文10年(1541年)の時点では新兵衛尉を名乗っており、山城守を名乗るのはそれ以降となる[1]。山城守と名乗っていることが確認できるのは、年未詳5月7日付荒木清長副状(「片山家文書」)[2]など。

出典

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  1. ^ a b 渡邊 2011, p. 137.
  2. ^ 八上城研究会 2000, pp. 85–86, 藤田達生「関係史料」; 渡邊 2011, pp. 136–137.
  3. ^ 渡邊 2011, p. 140.
  4. ^ a b 渡邊 2011, pp. 135–139.
  5. ^ a b 馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配と松井宗信」『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、266頁。ISBN 978-4-642-02950-6 
  6. ^ a b 八上城研究会 2000, p. 24, 藤田達生「八上城とその城下町の変容」.
  7. ^ 渡邊 2011, pp. 154–155, 註20.
  8. ^ 年未詳5月23日付波多野秀忠書状案(「蜷川家文書」、八上城研究会 2000, pp. 117–118, 藤田達生「関係史料」)。
  9. ^ 渡邊 2011, pp. 137–138.

参考文献

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