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草地貞吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
草地 貞吾
生誕 1904年5月28日
日本の旗 日本 大分県
死没 (2001-11-15) 2001年11月15日(97歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1927 - 1945
最終階級 陸軍大佐
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草地 貞吾(くさち ていご、1904年明治37年)5月28日 - 2001年平成13年)11月15日)は、日本陸軍軍人。最終階級は大佐

略歴

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旧制大分県立宇佐中学校出身。陸軍士官学校第39期を卒業し、同期生の末松太平歩兵少尉とともに青森衛戍地とする歩兵第5聯隊に配属される。1936年昭和11年)に末松歩兵大尉は、二・二六事件に連座している。

著名な同期生は、終戦時に陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、第53軍参謀の大橋武夫中佐がいる。第106師団では、同期の成富政一大佐(戦死後、進級)と勤務している。

終戦時、満州にあった関東軍の作戦課主任参謀。戦争末期、ソ連軍満州進攻に際し、居留民をまもって戦うことを主張して軍の後退に応じようとしない後宮淳方面軍司令官に対し、涙を飲んで居留民を見捨てるよう、説得を電話で行い、さらにはそのために高杉参謀を派遣したとされる[1]。ソ連軍の満州進攻に際し、軍人家族が真っ先に避難列車を仕立てて脱出、次いで軍属満鉄関係者とその家族であったことについて、戦後、一般の民間邦人には連絡が行き届かなかったためと弁明したこともある一方で、回想録では「なぜ関東軍は居留民保護に兵力を出さなかったか、より速やかに後退したかと糺されれば、作戦任務の要請であったと答えるばかりである」とも述べている[2]

終戦時にソ連軍に捕らわれ、シベリアに抑留された[3]。ソ連側から東京裁判に証人としての出廷を要請されたが、拒否している[3]。また、妻・次男・三女が新京から引き揚げの途上、発疹チフスで死亡している[3]

1956年に帰国後は教育者として活動[3][4]し、大東亜聖戦大碑建立にも関わった[4]

年譜

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著作

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  • 『地獄遍路』(日刊労働通信社シベリヤ叢書、1958年)、シベリア抑留記
  • 『その日、関東軍は 元関東軍参謀作戦班長の証言』(宮川書房、1967年)、関東軍の終戦始末
  • 『関東軍作戦参謀の証言』(芙蓉書房、1979年)、『地獄遍路』と『その日、関東軍は』を訂正合本
    • 改訂版『関東軍作戦参謀草地貞吾回想録』(芙蓉書房出版、1999年) ISBN 4-8295-0224-X
  • 『自衛隊史 日本防衛の歩みと進路』(日本防衛調査協会、1980年)
編著:第1巻 日本防衛の歩みと進路、第2巻 日本防衛の現状

伝記

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脚注

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  1. ^ 富田武『日ソ戦争 1945年8月 棄てられた兵士と居留民』みすず書房、2020年7月17日、207-208頁。 
  2. ^ 『関東軍作戦参謀の証言』芙蓉書房、1979年。 
  3. ^ a b c d e 花ある風景(90)”. 銀座一丁目新聞  (2002年4月10日). 2020年8月22日閲覧。
  4. ^ a b c 板垣正 (2001年12月22日). “弔辞 ― 草地貞吾先生を偲んで ― ”. 日本をまもる会 . 2020年8月22日閲覧。

関連項目

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  • 不毛地帯(登場人物の一人「満州関東軍の幕僚・谷川正治」は草地がモデルといわれる)