草刈隆継
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長9年(1604年) |
死没 | 寛文4年4月19日(1664年5月14日) |
改名 | 草苅小鍛冶丸(幼名)→草苅隆継 |
別名 | 通称:勝次郎→勝兵衛尉 |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 藤原北家秀郷流宇都宮氏庶流草苅氏 |
父母 | 父:草苅重継、母:宗像氏貞の三女[注釈 1] |
兄弟 | 女(鹿村正一室)、就継、女(都野就辰室)、種継、隆継、福岡氏継、孝継、円乗坊 |
子 | 継義 |
草苅 隆継(くさかり たかつぐ)は、江戸時代前期の武士。毛利氏の家臣で長州藩士。草苅氏は美作国の国人で、父は草苅重継(福岡重継)。兄に就継。
生涯
[編集]慶長9年(1604年)、毛利氏家臣の草苅重継(福岡重継)の次男として生まれる。
父・重継は毛利輝元に気に入られていたため、重継の子たちも輝元に可愛がられ、隆継も幼い頃より毛利秀就・就隆兄弟の御遊伽にしばしば召し出されていた。この縁もあり、慶長16年(1611年)1月11日、就隆の加冠状を受けて元服し、就隆から「隆」の偏諱を与えられて「隆継」と名乗った[1]。
元和2年(1616年)4月25日に父・重継が死去すると秀就に側近として召し出され、少知行を与えられる。その後、秀就、綱広の二代に仕え、寛文4年(1664年)4月19日に死去。享年61。子の継義が後を継いだ。