芝山宗綱
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 俊一(初名)→宗綱 |
別名 | 柴山宗綱、通称:源内、監物 |
主君 | 荒木村重?→織田信長→豊臣秀吉 |
氏族 | 芝山氏 |
芝山 宗綱(しばやま むねつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。利休七哲の一人。
生涯
[編集]出自は不明だが、一説に摂津国小部付近[1]に勢力を持っていた向氏(橘遠保を遠祖とすると自称)の一族とされる[2]。
はじめ石山本願寺の勢力下に属したが、荒木村重らと共に織田信長に接近した。天正6年(1578年)に村重が反旗を翻した際に、摂津大和田城に安部良成らと駐屯していたが、揃って村重の下を離れ信長に帰順し、信長から黄金を賜ったといわれる[3]。のちに羽柴秀吉の馬廻となり、軍目付などとして小田原征伐にも従軍し、天正16年(1588年)に後陽成天皇の聚楽第行幸の際に先導役を務めたとされる。のち、御咄衆として1万石を給せられた。
茶人としても知られ、千利休の高弟である利休七哲に数えられる。天正9年(1581年)には津田宗及や山上宗二らを招いて茶会を行なっており、既に茶人として名が知られていたようである。利休とは懇意であったようで、長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られている他、現在確認されている利休の書簡のうち監物(宗綱)宛が一番多く、また利休最期の書簡も監物宛である。また、芝山型の手水鉢や芝山緞子などに茶道具にもその名を残している。