舟山島
舟山島 | |
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所在地 | 中国 浙江省 |
所属諸島 | 舟山群島 |
座標 | 北緯30度 東経122度 / 北緯30度 東経122度座標: 北緯30度 東経122度 / 北緯30度 東経122度 |
面積 | 476.1653 km² |
最高標高 | 100 - 400 m |
最高峰 | 黄楊尖(503.6m) |
最大都市 | 舟山市 |
プロジェクト 地形 |
舟山島(しゅうざんとう、中国語: 舟山岛、拼音: )は、中国の杭州湾の東南方、浙江省東北部の海域に位置する島。第一次海南島調査時の面積は、476.1653平方キロメートルで、舟山群島の主たる島、浙江省では最大、中国沿海の島としても3番目に大きな島であり、南に寧波市を望む。寧波のみならず、上海市などとも船便で結ばれている[1][2]。東港周辺に広がる遠浅の海の開発で干拓工事が進んだため、梁横山など近傍の小さな島々が連結され、舟山島の一部となっており、現在の舟山島の面積は500平方キロメートルほどに拡大しているものと思われる。
この島は、周囲のごくわずかな沖積平野を別にすれば、ほとんどが標高100メートルから400メートルほどの山地と丘陵である。標高が最も高いのは、黄楊尖の503.6メートルである。
舟山島の気候は、「周淑貞気候分類法」によれば「副熱帯季風気候」、ケッペンの気候区分によれば温暖湿潤気候であり、東シナ海からの海洋気流の影響を受けるため、冬季の気温は、上海市や杭州市など、大陸側の都市よりも高くなる。
島内には、およそ5000年前に遡るとされる稲作文化遺跡があり、日本への稲作伝来の経路のひとつとする説もある[3]。また、遣隋使、遣唐使の経由地でもあり[2][3]、南側の沖合にある小島、普陀山には、入唐僧慧萼が開基した霊場がある[1]。
アヘン戦争中にイギリス軍が戦略の拠点として駐屯した[4]。イギリスは清国が戦後の賠償金(総額2700万ドル)を完済する1846年まで、舟山を占領し続けた[4]。
1949年に国共内戦に敗北した蔣介石ら国民党の一団は、舟山島から海路で台湾に逃れた[2]。
その後、舟山島周辺は、中国人民解放軍海軍の基地などが設けられており[2]、周辺海域で大規模な演習が行なわれることもある[5]。
舟山島は行政上、東部が舟山市普陀区、西部は舟山市定海区に属しており、島の中部に位置する臨城新区(临城新区)と称される地区は、舟山市の行政中心地となっている。
2004年、舟山市は、海峡を跨ぎ、舟山本島と大陸を結ぶ橋を建設する「舟山大陸連島工程(舟山大陆连岛工程)」に着工し、2008年に竣工、2009年12月25日に「G329国道(杭瀋線)」/「甬舟高速道路」が開通した。
脚注
[編集]- ^ a b 近藤妙子 (1986年7月23日). “邦人開祖の寺でにぎわう島 中国浙江省・舟山群島をみる”. 朝日新聞・夕刊: p. 3. "寧波から船で3、4時間。上海からの航路もある。...普陀山はこの島の南端沖合にあり、1周32キロの小さな島だ。日本僧、慧鍔がここに庵(いおり)を建てたことが始まりで、中国3大霊場の1つに発展していったと伝えられる。" - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ a b c d “[フロント・ライン]開放進む舟山群島 漁業も密貿易も…水揚げは中国全土の1割”. 毎日新聞・東京朝刊: p. 6. (1983年12月22日). "舟山群島は、遣唐使の時代から日本との縁が深い。蔣介石の国民党軍が台湾へ逃げた浜辺もあり、現在は台湾漁船の往来や、密貿易も活発化。湾内には潜水艦も浮上し、中国海軍の最前線基地でもある。" - 毎索にて閲覧
- ^ a b “稲作伝来ルーツ求め旅 遺跡や類似伝説で中国・舟山群島に目星”. 朝日新聞・朝刊・東京: p. 3. (1992年12月11日). "稲作文化遺跡があり、約5000年前にはこの島にも稲作が伝わっていたことが分かった。この島は、遣隋使、遣唐使の時代からの通路でもあった。" - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ a b 加藤祐三、川北稔『世界の歴史 25:アジアと欧米世界』中央公論社、321頁。
- ^ 大江志伸 (1997年7月21日). “中国・東海艦隊が大規模演習 台湾をけん制?”. 読売新聞・東京朝刊: p. 6. "東海艦隊の演習は上海市沖合の舟山島付近の海域で実施され、艦艇八隻と九百人の将兵が参加し、操艦技術やミサイル、ロケット、魚雷発射の練度向上をテーマに、「過去三十年では最大規模の演習」を展開した。" - ヨミダス歴史館にて閲覧