コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

朝潮型駆逐艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
臨機調事件から転送)
朝潮型駆逐艦
竣工直後撮影されたと推定される「朝雲」(1938年)[1]
竣工直後撮影されたと推定される「朝雲」(1938年)[1]
基本情報
種別 一等駆逐艦[2]
命名基準 天象・地象名
運用者  大日本帝国海軍
前級 白露型駆逐艦
次級 陽炎型駆逐艦
要目 (竣工時計画)
基準排水量 2,000トン[3]
公試排水量 2,394トン[4]
満載排水量 2,635トン[3]
全長 118.00m[5]
水線長 115.00m[5]
垂線間長 111.00m[5]
最大幅 10.386m[5]
水線幅 10.352m[5][注釈 1]
深さ 6.30m[5]
吃水 公試平均 3.72m[4]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付) 3基[6]
主機 艦本式タービン(高中低圧) 2基[6]
推進器 2軸 x 380rpm[6]
直径3.280m、ピッチ3.780m[7]
直径3.400m、ピッチ3.600m(山雲以降)[7]
出力 50,000shp[5][注釈 2]
速力 34.85ノット[4]
航続距離 4,000カイリ / 18ノット[4][8]
燃料 重油 580トン[5]
乗員 計画乗員 229名[9]
竣工時定員 219名[10]
もしくは新造時 230名[3]
兵装 50口径三年式12.7cmC型連装砲 3基6門[12]
計画:25mm機銃 連装2型2基[12]
新造時:25mmまたは13mm連装機銃 2基[3]
(61cm)九二式4連装魚雷発射管一型 2基8門[13]
九〇式魚雷 16本[13]
九四式爆雷投射機1基、三型装填台1基[13]
爆雷投下台 水圧二型2基、手動一型4基[13]
九一式爆雷 36個[13]
搭載艇 7.5m内火艇2隻、7mカッター2隻、6m通船1隻(母港保管)[11]
その他 単艦式大掃海具1基、小掃海具一型改一2基(または1基)[13]
テンプレートを表示

朝潮型駆逐艦(あさしおかたくちくかん)は大日本帝国海軍(以下「海軍」)の一等駆逐艦[2]の艦級である。同型艦10隻[2]一番艦の「朝潮」沈没後は、満潮型駆逐艦と改定された[14]

概要

[編集]

②計画(1934年)で建造された大型駆逐艦10隻[15]。軍縮条約の結果建造された中型駆逐艦(初春型白露型)では艦隊決戦型駆逐艦とし満足出来ず[16]吹雪型(特型)駆逐艦並の大きさに戻された[15]。起工前後に第四艦隊事件が発生し、計画改正後に建造を続行[17]1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)に竣工した[18]。竣工前後に艦尾改正[19]や臨機調事件による改装があり[20]、艦隊編入は1940年(昭和15年)からになった[21]

本型は特型で実現した艦隊型駆逐艦を更に完全にした最初の型で、その後の建造される駆逐艦(陽炎型夕雲型)の基本型となった[19][22]。しかし本型の航続力は軍令部の要求に達せず、③計画での建造は陽炎型駆逐艦へ移行することになる[23]

太平洋戦争には全10隻が参加し、全て戦没した[18]

建造背景

[編集]

1930年(昭和5年)のロンドン軍縮条約の結果、日本は1,500トン(基準排水量、以下同様)を超える駆逐艦の建造が不可能となり、規定排水量内で戦力を拡充するために①計画(1931年)で「初春型駆逐艦」(計画1,400トン)の建造を行う[16]。初春型は排水量を条約規定内に納めると同時に特型駆逐艦(計画1,680トン)並の兵装を搭載する無理な設計の結果、復元性に問題があり大規模な改装が必要になった[16]。そこで初春型は6隻で打ち切られ、初春型の改良型である「白露型駆逐艦」6隻を建造した[16]。続く②計画(1934年)では白露型14隻の建造を計画したが、この計画での白露型を4隻で打ち切り、残り10隻は大型駆逐艦を建造することにした[16]。これが本型である。

この時期、決戦海域の拡大が予想されていて、主要艦艇は航続力の増大と機動力向上が図られていた[16]。白露型の打ち切りと本型への移行は、中型駆逐艦(白露型)では兵装、速力、航続力で満足できる性能を持つ艦を建造することが不可能と判断したと思われる[16]。時代背景として満州事変などによる国際情勢の緊迫化や国際連盟、軍縮條約の脱退が見込まれていたことなどもあった[16]

計画

[編集]

計画番号F48[5]友鶴事件の教訓を踏まえて計画された当初の計画要目は以下の様であった[24]

  • 基準排水量:1,961トン
  • 公試排水量:2,370トン[5]
  • 満載排水量:2,612.1トン[5]
  • 吃水:公試平均 3.69m、満載平均 3.94m[5]
  • 速力:35ノット[5]
  • 航続距離:3,800カイリ / 18ノット[5]
  • 燃料:重油387トン

しかし1番艦「朝潮」の起工後すぐに第四艦隊事件が発生し、設計変更を余儀なくされた[4]。設計変更後の要目は要目表の数値を参照されたい。排水量は当初計画より更に増し(『海軍造船技術概要』によると約100トン増[25])速力も35ノットに及ばない34.85ノットとされた[4]。実際の公試成績は(以下は「大潮」の成績、但し#艦尾形状変更後と推定される)[3]

  • 速力:35.98ノット(計画34.85ノット)
  • 航続距離:5,190カイリ/18ノット(計画4,000カイリ/18ノット)

と計画を大幅に超過している。用兵側は速力と航続距離に不満があり陽炎型駆逐艦を計画したが[26]、実際の航続距離に関しては十分満足いく値であった[27]

艦型

[編集]

上構配置は基本的に白露型を踏襲している[3][28]

船体は「特型駆逐艦」とほぼ同じ程度になる[15]。竣工時の特型より本型の方が排水量は大きいが、性能改善工事後の特型と比べると特型の方が大きくなった[28]。設計段階で復元性能を重視したため、全体のシルエットは特型より低くなっている[28]。乾舷も低く、風圧側面積が小となって復元性能上有利であり、襲撃時でも発見率が低くなり有利だった[28]。この場合でも高速発揮のためには艦首乾舷には十分な高さが必要で[29]、その高さは特型並にした[28][30]

主砲

[編集]

主砲は特型以来搭載されている三年式50口径12.7センチ連装砲で[20]、船首楼甲板に1基、後部に背負い式に2基の計3基6門で、配置法も含めこれも特型と同じである[30]。砲塔形式はC型で白露型から採用され[20]、次の陽炎型にも搭載された[31]。最大仰角は55度で対空射撃も可能とされたが、最大仰角での発射速度は1分間で4発(水平で11発)であり、弾丸、装薬は別々に装填していた[20]。一方当時のアメリカ海軍が駆逐艦の主砲に採用した38口径12.7cm砲は、弾丸と装薬を一体化した薬莢方式で装填は半自動、発射速度は仰角に関係なく1分間で15発であり、対空火力としての差は大きかった[32]

機銃

[編集]

機銃は計画では九三式13mm連装機銃2基4挺であるが1938年(昭和13年)の年報では朝潮のみ25mm連装機銃2基装備となっている[33][34]。また荒潮の公式図では毘式40mm単装機銃2挺を装備しているが写真などからの確認はできていない[33]

機銃の装備位置は初春型・白露型と同様、第2煙突直前に機銃台を設けて設置した(陽炎型・夕雲型も同一位置)。 本型の煙突は前部がすぼまった通常と逆の形状をしており、第2煙突に関しては機銃台の面積をかせぐためと思われる[28]

大戦中の機銃増備についても不明な点が多い。 あ号作戦ごろの朝潮型においては第2砲塔を撤去し25mm3連装機銃2基を装備、13mm機銃は25mm3連装機銃と交換、艦橋前に機銃台を設置し25mm連装機銃1基を設置し、合計25mm3連装機銃4基、連装機銃1基を装備した[35]。その他25mm単装機銃を装備したとされる[35]

魚雷

[編集]

魚雷発射管は白露型と同じ九二式4連装発射管2基を搭載した[33]。盾の形状は白露型のそれと同じで、陽炎型のとは異なる[33]。初春型から採用された次発装填装置も搭載され、1番発射管の予備魚雷は第2煙突両側、2番のそれは後部の上構に食い込む形で設置されている[33]

魚雷は竣工時は九〇式魚雷(空気式魚雷)を搭載していた[33]1941年(昭和16年)の開戦前までに九三式魚雷(いわゆる酸素魚雷)搭載に改装されたと思われる[33]

爆雷

[編集]

爆雷は九一式爆雷36個を搭載、九四式爆雷投射機(Y砲)1基、爆雷投下台6基を設置した[33]。白露型では爆雷投射機2基、投下軌道2条であり、対潜兵装はいくらか後退した[33]

水測兵器

[編集]

竣工時には探信儀(アクティブ・ソナー)を搭載していなかったが1940年(昭和15年)に九三式三型探信儀が朝潮型6艦に搭載された[21]

レーダー

[編集]

大戦中、22号電探が前部マストを改正して装備された[35]。また「あ号作戦後」に13号電探を後部マストに搭載したと思われる[36]

機関

[編集]

計画出力は特型と同じ50,000馬力[37]。タービンは新規に設計された艦本式高中低圧タービン2基、巡航タービンは減速歯車を通して中圧タービンに接続された[37]。特型では機械室に中央隔壁があり機械室が左右に分かれていたが、本型では隔壁を廃止、機械室は1つになった[37]。速力35ノット発揮には計画で52,000馬力が必要とされ[29]、後の陽炎型で実現している。

交流電源

[編集]

日本海軍の駆逐艦では本型から艦内の電気系統を220V交流とした[38]。当時の軍艦は直流を採用していたが、交流化で電気設備の重量・容積共に小さくなったほか、耐久性・メンテナンス性も向上したという[20]。重量比で従来から25%減少したと言われる[38][20]。同時期に工作艦「明石」では440V交流が採用され、以後新造艦艇の交流化が進められた[38]

竣工後の改正

[編集]

艦尾形状変更

[編集]

竣工後に旋回圏の大きいことがわかり、艦尾水線付近は丸みをつけた形状からナックルを付けた形状に変更(陽炎型と同様の形状)、舵の形状も変更する工事をしている[19][25]。また推進器の回転数が計画の380rpmから実際には350rpmに落ちており、推進器直径を3.40mから3.28mに小さくし計画回転数を375rpmにした結果、旋回圏が小さくなったと同時に速力も0.7ノットほど増大した[19]。この改正は最初の4隻(朝潮・大潮・満潮・荒潮)のみと思われ、「朝雲」以降の残り6隻は艦尾を改正した状態で竣工、推進器直径は3.400mのままと思われる[19]。 なお『海軍造船技術概要』では「山雲」以降(5隻)の推進器直径を3.400mとしている[7]

臨機調事件

[編集]

更に1937年(昭和12年)12月29日に「朝潮」のタービンの開放検査をしたところ、タービン翼の一部破損が発見され、翌年1月19日に臨時機関調査委員会を組織し原因究明が行われることとなった。本件は一時、日本海軍全艦艇に問題があるのではないかと思われた(臨機調事件)[39]。調査の結果、原因はタービン翼の共振であること、また朝潮型に搭載されたタービン特有の現象で、他の艦艇には問題が無いことがわかった[39]。その後、対策が施され以後問題はなくなった[39]

しかしながら前述したとおり、航続距離が要求に達しなかったことで、改良型ともいえる「陽炎型駆逐艦」に移行することとなる[23]

艦歴

[編集]

1937年中に竣工した「朝潮」「大潮」「満潮」の3隻は同年末まで一ヶ月ほど中支方面へ出勤している[21][18]1938年(昭和13年)から各艦は予備艦となり改装工事を行い、昭和15年(1940年)度から順次艦隊に編入された[21]

「朝潮」以下4隻は開戦時第8駆逐隊を編成しマレー上陸作戦等、緒戦の南方攻略作戦に参加。ミッドウェー海戦には第7戦隊(最上型4隻)直衛として参加している。その後はソロモン方面へ進出し1943年(昭和18年)に入り「朝潮、荒潮、大潮」がいずれもソロモン方面で戦没。残った「満潮」はレイテ沖海戦において第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)の一員として参加しスリガオ海峡で戦没した。

「朝雲」以下4隻は開戦時第9駆逐隊を編成し第8駆逐隊同様各地の攻略作戦に参加している。うち「山雲」は1941年(昭和16年)12月のリンガエン上陸作戦中に触雷し、修理のため翌年9月まで戦列を離れた。「夏雲、峯雲」は1942年(昭和17年)10月と翌年3月にソロモン方面で戦没している。残った「朝雲」は復帰の「山雲」、第8駆逐隊・第24駆逐隊生き残りの「満潮」とともに西村艦隊に所属しレイテ沖海戦に参加、3隻ともスリガオ海峡で戦没した。

「霰、霞」は陽炎型の「陽炎、不知火」と第18駆逐隊を編成し第一航空艦隊(南雲艦隊)空母を直衛、真珠湾攻撃セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦などに参加する。その後「霰」は1942年(昭和17年)7月にキスカ湾で戦没する。この時「霞、不知火」も雷撃により損傷した。修理完了後は北方部隊に編入され船団護衛任務についた。レイテ沖海戦では第二遊撃部隊(志摩艦隊)に所属しスリガオ海峡海戦に参加したが生還する。その後オルモック輸送作戦3回、礼号作戦などに参加。北号作戦で本土に帰還。最後は戦艦「大和」や第二水雷戦隊各艦とともに天号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加したが、米軍機の攻撃により航行不能となり、秋月型駆逐艦「冬月」に処分された。

同型艦

[編集]

艦艇類別等級表[2]記載順。

朝潮 [II](あさしお / あさしほ)[40]
1937年8月31日竣工(佐世保海軍工廠[41]1943年3月3日沈没[18]
大潮(おおしお / おほしほ)[40]
1937年10月31日竣工(舞鶴海軍工廠[41] 1943年2月20日(21日)沈没[18]
満潮(みちしお / みちしほ)[42]
1937年10月31日竣工(藤永田造船所[41] 1944年10月25日沈没[18]
荒潮(あらしお / あらしほ)[42]
1937年12月20日竣工(神戸川崎造船所[41] 1943年3月3日沈没[18]
朝雲(あさぐも)[43]
1938年3月31日竣工(神戸川崎造船所)[41] 1944年10月25日沈没[18]
山雲(やまぐも)[43]
1938年1月15日竣工(藤永田造船所)[41] 1944年10月25日沈没[18]
夏雲(なつぐも)[44]
1938年2月10日竣工(佐世保海軍工廠)[41] 1942年10月12日沈没[18]
峯雲(みねぐも)[45]
1938年4月30日竣工(藤永田造船所)[41] 1943年3月5日沈没[18]
[II](かすみ)[46]
1939年6月28日竣工(浦賀船渠[41] 1945年4月7日沈没[18]
[II](あられ)[45]
1939年4月15日竣工(舞鶴海軍工廠)[41] 1942年7月5日沈没[18]

駆逐隊の変遷

[編集]

初期から中期の8隻はそれぞれ4隻で駆逐隊を組み、最終ロット2隻は陽炎型2隻と駆逐隊を編成した。

第二十五駆逐隊→第八駆逐隊

[編集]

佐世保鎮守府籍の朝潮大潮満潮荒潮で編成。1937年(昭和12年)10月31日に解隊した樅型駆逐艦4隻からなる先代に続く三代目の第二十五駆逐隊である。1939年(昭和14年)11月1日付で横須賀鎮守府の吹雪型駆逐艦4隻からなる先代第八駆逐隊が呉鎮守府第二十駆逐隊に転出し、入れ替わりに横須賀に転籍したため、四代目の第八駆逐隊となる。就役当初よりタービン翼の折損事故が相次ぎ、全艦とも改善工事のため水雷戦隊に所属するのは横須賀転籍後となった。

1937年(昭和12年)10月31日:編成。
1939年(昭和14年)11月1日:横須賀鎮守府に転籍、第八駆逐隊に改称。第二艦隊第二水雷戦隊
1942年(昭和17年)2月20日:大潮、満潮がバリ島沖海戦で損傷。
1942年(昭和17年)4月10日:第二艦隊第四水雷戦隊に転籍。
1942年(昭和17年)5月15日:大潮、満潮が外れる[47]、特別役務駆逐艦に指定[48]
1942年(昭和17年)6月7日:朝潮、荒潮が重巡「三隈最上」護衛中に損傷(ミッドウェー海戦)。
1942年(昭和17年)7月14日:朝潮、荒潮を特別役務駆逐艦に指定[49]
1942年(昭和17年)8月1日:朝潮、荒潮を横須賀鎮守府警備駆逐艦に指定[50]
1942年(昭和17年)10月20日:第八艦隊に転籍。朝潮、荒潮が原隊復帰。満潮を編入[51]
1942年(昭和17年)11月13日:満潮が損傷、戦線を離脱(第三次ソロモン海戦)。
1942年(昭和17年)12月29日:大潮を編入[52]
1943年(昭和18年)2月21日:大潮戦没、4月1日除籍。
1943年(昭和18年)3月3日:朝潮、荒潮が戦没(ビスマルク海海戦)。4月1日除籍。
1943年(昭和18年)4月1日:解隊[53]
(1943年(昭和18年)10月31日:満潮は第二十四駆逐隊に転出[54]。以後は第二十四駆逐隊の項に譲る。)

第四十一駆逐隊→第九駆逐隊

[編集]

横須賀鎮守府籍の山雲夏雲朝雲峯雲で編成。編成時に横須賀鎮守府所属駆逐隊が第一から第十まで全て存在していたため、第四十一駆逐隊となった。1939年(昭和14年)11月15日付で初春型駆逐艦2隻および白露型駆逐艦2隻からなる先代第九駆逐隊が佐世保鎮守府第二十七駆逐隊に転出し、入れ替わりに第九駆逐隊に改称したため、五代目の第九駆逐隊となる。こちらも改善工事のため水雷戦隊に所属するのは当初より遅れた。

1938年(昭和13年)2月10日:編成。
1939年(昭和14年)11月15日:第九駆逐隊に改称。
1940年(昭和15年)11月15日:第二艦隊第四水雷戦隊。
1942年(昭和17年)5月15日:山雲が損傷修理のため駆逐隊を外れ[47]、特別役務艦に指定[48]
(1942年(昭和17年)10月1日:山雲修理完了、警備駆逐艦に指定され、横須賀鎮守府海面防備隊に転出[55]。)
1942年(昭和17年)10月12日:夏雲が戦没(サボ島沖海戦)、11月15日除籍。
1943年(昭和18年)3月5日:峯雲が戦没(ビラ・スタンモーア夜戦)、4月1日除籍。
1943年(昭和18年)4月1日:第五艦隊第一水雷戦隊に転籍。第二十一駆逐隊より薄雲第二十駆逐隊より白雲を編入[53]
1943年(昭和18年)9月1日:呉鎮守府予備艦よりを編入[56]
1943年(昭和18年)10月31日:朝雲は第十駆逐隊に転出[54]
1944年(昭和19年)3月1日:第九艦隊より不知火を編入[57]
1944年(昭和19年)3月16日:白雲戦没、3月31日除籍。
1944年(昭和19年)3月31日:解隊(第十八駆逐隊に改称、以後は下記第十八駆逐隊の項に譲る)[58]

第十八駆逐隊

[編集]

呉鎮守府籍のと陽炎型の陽炎不知火で編成。1935年(昭和10年)4月1日に解隊した磯風型駆逐艦4隻からなる先代に続く三代目の第十八駆逐隊である。

1939年(昭和14年)11月15日:編成。第二艦隊第二水雷戦隊。
1942年(昭和17年)7月5日:霰戦没、7月31日除籍。
1942年(昭和17年)7月20日:陽炎は第十五駆逐隊に転出[59]
1942年(昭和17年)8月13日:霞および不知火、損傷修理のため離脱、霞は呉鎮守府予備艦、不知火は舞鶴鎮守府予備艦へ。
1942年(昭和17年)8月15日:解隊[60]
(1943年(昭和18年)9月1日:霞修理完了、第九駆逐隊に転出[56]。)
(1943年(昭和18年)11月15日:不知火修理完了、第九艦隊附属に転出。)
1944年(昭和19年)3月31日:再建(上記第九駆逐隊を改称。不知火薄雲[58]。第五艦隊第一水雷戦隊。
1944年(昭和19年)7月7日:薄雲戦没、9月10日除籍。
1944年(昭和19年)10月27日:不知火が戦没(レイテ沖海戦)。霞は第一水雷戦隊附属に転出、12月10日不知火除籍。
1944年(昭和19年)11月15日:解隊。霞は第七駆逐隊に転出[61]
(1945年(昭和20年)3月10日:霞は第二十一駆逐隊に編入[62]
(1945年(昭和20年)4月7日:霞、朝霜坊ノ岬沖海戦で戦没。4月20日附で初霜は第十七駆逐隊に転出[63])。
(1945年(昭和20年)5月10日:第二十一駆逐隊は解隊[64]。霞、朝霜除籍[65][66]。)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ #軍艦基本計画資料sheet15では水線幅10.350m、吃水3.600m、排水量2,275トン、速力35.2ノットになっている。
  2. ^ #海軍造船技術概要(1987)上巻p.714では朝潮型タービンを52,000馬力としている。

出典

[編集]
  1. ^ #日本海軍全艦艇史p.618、No.1759の写真と解説。
  2. ^ a b c d #S14.12.25内令提要原稿/艦船(1)画像5、艦艇類別等級表
  3. ^ a b c d e f #駆逐艦朝潮型・秋月型p.50、#写真日本の軍艦第10巻p.80。
  4. ^ a b c d e f #駆逐艦朝潮型・秋月型p.49、#写真日本の軍艦第10巻p.79。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n #一般計画要領書(駆逐艦)p.4
  6. ^ a b c #昭和造船史1pp.788-789
  7. ^ a b c #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1695
  8. ^ #軍艦基本計画資料sheet15
  9. ^ #一般計画要領書(駆逐艦)p.28、士官8人、特務士官2人、准士官2人、下士官兵217人。
  10. ^ #S12.12.01内令提要原稿/定員(1)画像36-37『昭和十二年四月二十三日内令百六十九號改定 改正 昭和一二年第二〇〇號、第三〇七號、第五五二号、第七七〇號 | 第七十四表 | 一等駆逐艦定員表 其ノ三 |(初春型、白露型略) | 朝潮、大潮、満潮 | (以下略)』 士官8人、特務士官2人、准士官2人、下士官60人、兵147人。 #S13.12.25内令提要原稿/定員(6)画像22-23、第七十四表の追加改正は昭和一二年第九四二號、一三年第一〇一八號。朝潮、大潮、満潮、荒潮の定員の計は士官8人、特務士官2人、准士官2人、下士官61人、兵146人。 #S14.12.25内令提要原稿/定員(4)画像6『昭和十二年五月二十六日内令二百四十二號制定 改正 昭和一二年第八二二號、一三年第三七號、第二三一号、第三四八號、第一〇一八號、一四年第四八八號 | 第七十四表ノ二 | 一等駆逐艦定員表 其ノ四 | 夏雲、山雲、朝雲、峯雲、霰、霞 |(以下略)』 士官7人、特務士官2人、准士官3人、下士官61人、兵146人。
  11. ^ #一般計画要領書(駆逐艦)p.36
  12. ^ a b #一般計画要領書(駆逐艦)p.8
  13. ^ a b c d e f #一般計画要領書(駆逐艦)p.12
  14. ^ #内令昭和18年4月(1)画像20『内令第五百六十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年四月一日海軍大臣嶋田繁太郎|駆逐艦、一等ノ部中「白雪型」ヲ「初雪型」ニ改メ同項中「白雪、」ヲ、同白露型ノ項中「、村雨」ヲ削リ同「朝潮型」ヲ「満潮型」ニ改メ同項中「、朝潮、大潮」「、「荒潮」「、峯雲」ヲ、同陽炎型ノ項中「時津風、」ヲ削ル(以下略)』
  15. ^ a b c #日本駆逐艦史(1992)p.104
  16. ^ a b c d e f g h #駆逐艦朝潮型・秋月型p.48、#写真日本の軍艦第10巻p.48。
  17. ^ #駆逐艦朝潮型・秋月型pp.49-50、#写真日本の軍艦第10巻pp.79-80。
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m 伊達久「朝潮型行動年表」#写真日本の軍艦第10巻pp.80-83
  19. ^ a b c d e #駆逐艦朝潮型・秋月型p.52、#写真日本の軍艦第10巻p.82。
  20. ^ a b c d e f #駆逐艦朝潮型・秋月型p.53、#写真日本の軍艦第10巻p.83。
  21. ^ a b c d #駆逐艦朝潮型・秋月型p.55、#写真日本の軍艦第10巻p.85。
  22. ^ #日本駆逐艦物語p.142
  23. ^ a b #日本駆逐艦史(1992)p.108
  24. ^ #駆逐艦朝潮型・秋月型pp.48-49、#写真日本の軍艦第10巻pp.78-79。
  25. ^ a b #海軍造船技術概要(1987)上巻p.419
  26. ^ #写真日本の軍艦第10巻p.118。「(前略)反面、速力の三五ノットと航続距離の一八ノットにて四、〇〇〇カイリという性能面での不足が指摘されていた。このため、軍令部では朝潮型を一〇隻で打ち切って、(後略)」
  27. ^ #駆逐艦朝潮型・秋月型p.52。「当初、朝潮型の航続距離が不十分とされ、次の陽炎型における改善項目の一つに挙上げられていたが、実際にはほとんど陽炎型に劣ることなく、十分な値を示していた。」
  28. ^ a b c d e f #駆逐艦朝潮型・秋月型p.51、#写真日本の軍艦第10巻p.81。
  29. ^ a b #海軍造船技術概要(1987)上巻p.417
  30. ^ a b #日本駆逐艦史(1992)p.106
  31. ^ #日本の駆逐艦p.200
  32. ^ #駆逐艦朝潮型・秋月型pp.53-54、#写真日本の軍艦第10巻pp.83-84。
  33. ^ a b c d e f g h i #駆逐艦朝潮型・秋月型p.54、#写真日本の軍艦第10巻p.84。
  34. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第四その一「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦、駆逐艦」
  35. ^ a b c 「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」#日本駆逐艦物語pp.270-271,280
  36. ^ #駆逐艦朝潮型・秋月型p.56、#写真日本の軍艦第10巻p.86。
  37. ^ a b c 阿部安雄「技術面から見た日本驅逐艦ノ発達 2.機関」#日本駆逐艦史(1992)p.166-173
  38. ^ a b c 高橋治夫「一次電源の交流化と朝潮型」#駆逐艦朝潮型・秋月型p.64、#写真日本の軍艦第10巻p.90。
  39. ^ a b c 高橋治夫「臨機調事件の顛末」#駆逐艦朝潮型・秋月型pp.44-45、#写真日本の軍艦第10巻pp.72-73。
  40. ^ a b #海軍制度沿革8(1971)p.381、昭和10年9月6日附達第107号
  41. ^ a b c d e f g h i j #S14.12.25内令提要原稿/機密保護画像4、艦船要目公表範囲
  42. ^ a b #海軍制度沿革8(1971)p.381、昭和10年9月28日附達第116号
  43. ^ a b #海軍制度沿革8(1971)p.382、昭和11年10月22日附達第164号
  44. ^ #海軍制度沿革8(1971)pp.381-382、昭和11年6月10日附達第73号
  45. ^ a b #海軍制度沿革8(1971)p.368、昭和11年12月14日附達第182号
  46. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.381、昭和11年1月10日附達第7号「朝雲」と命名。同書p.381、昭和11年6月19日附達第80号で「霞」に改める。
  47. ^ a b #内令昭和17年5月(2)p.26『内令第八百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』
  48. ^ a b #内令昭和17年5月(2)pp.26-27『内令第八百五十一號 横須賀鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 大潮 驅逐艦 満潮 驅逐艦 山雲 右特別役務驅逐艦ト定ム|昭和十七年五月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  49. ^ #内令昭和17年7月(2)p.15『内令第千二百四十八號|第八驅逐隊 横須賀鎮守府予備駆逐艦 驅逐艦 朝潮、驅逐艦 荒潮 右特別役務驅逐艦ト定ム|昭和十七年七月十四日海軍大臣嶋田繁太郎』
  50. ^ #内令昭和17年8月(1)pp.10-11『内令第千四百二十四號|第八驅逐隊 横須賀鎮守府予備駆逐艦 驅逐艦 朝潮、驅逐艦 荒潮 右警備驅逐艦ト定メラル|昭和十七年八月一日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  51. ^ #内令昭和17年10月(4)pp.10-11『内令第千九百三十四號|驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「荒潮」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第三十驅逐隊ノ項中「弥生、」ヲ削ル』
  52. ^ #内令昭和17年12月(5)p.21『内令第二千四百二十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十二月二十九日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、大潮」ヲ加フ』
  53. ^ a b #内令昭和18年4月(1)p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』
  54. ^ a b #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
  55. ^ #内令昭和17年10月(1)pp.2-3『内令第千八百二十五號|横須賀鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 山雲|呉鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 夕霧 驅逐艦 白雲|右警備驅逐艦ト定メラル|昭和十七年十月一日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  56. ^ a b #内令昭和18年9月(1)p.26『内令第千八百十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年九月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「白雲」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ』
  57. ^ #内令昭和19年3月(1)p.17『内令第三百八十八号 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年三月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「霞」ノ下ニ「、不知火」ヲ加フ|第十九驅逐隊ノ項中「敷波」ノ下ニ「、天霧」ヲ加フ』
  58. ^ a b #内令昭和19年3月(5)p.39『内令第五百十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年三月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「野分、舞風、山雲」ヲ「野分、山雲、満潮」ニ改ム|第九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「濱風」ノ下ニ「、雪風」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|第十八驅逐隊/薄雲、霞、不知火|第二十二驅逐隊ノ項中「、文月」ヲ削ル|第二十四驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  59. ^ #内令昭和17年7月分(3)p.28『内令第千三百二十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十七年七月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎 第十八驅逐隊ノ項中「陽炎、」ヲ削リ第十五驅逐隊ノ項中「早潮」ノ下ニ「、陽炎」ヲ加フ』
  60. ^ #内令昭和17年8月分(2)p.40『内令第千五百三十號 驅逐隊編制中左ノ通改正セラル 昭和十七年八月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎 第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  61. ^ #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  62. ^ #秘海軍公報昭和20年3月(2)p.15『内令第二二一號 驅逐隊編制中左ノ取改定セラル|昭和二十年三月十日海軍大臣|第七驅逐隊ノ項中「、霞」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、時雨、朝霜」ヲ「初霜、朝霜、霞」ニ改ム|第四十三驅逐隊ノ項中「梅、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項チ中「樅、」ヲ削ル』
  63. ^ #内令昭和20年4月(3)p.33『内令第三三六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年四月二十日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「雪風」ノ下ニ「、初霜」ヲ加フ|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、」ヲ削ル』
  64. ^ #秘公報昭和20年5月(3)p.2『内令第四〇四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月十日海軍大臣|第二十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  65. ^ #秘公報昭和20年5月(3)p.1『内令第四〇〇號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和二十年五月十日海軍大臣|驅逐艦、一等ノ部中「満潮型/霞」、「夕雲型/朝霜」ヲ削ル(以下略)』
  66. ^ #秘公報昭和20年5月(3)pp.24-26『内令第四一一號 横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 朝霜|呉鎮守府在籍 驅逐艦 霞|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年五月十日海軍大臣』

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和17年4月〜6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。Ref.C12070162800。 
    • 『昭和17年7月〜9月 内令3巻/昭和17年7月分(2)』。Ref.C12070164100。 
    • 『昭和17年7月〜9月 内令3巻/昭和17年7月分(3)』。Ref.C12070164200。 
    • 『昭和17年7月〜9月 内令3巻/昭和17年8月分(1)』。Ref.C12070164400。 
    • 『昭和17年10月〜12月内令4巻止/昭和17年10月(1)』。Ref.C12070165700。 
    • 『昭和17年11月(4) 内令(昭和17年11月17日〜昭和17年11月25日)』。Ref.C12070173700。 
    • 『昭和17年10月〜12月 内令4巻止/昭和17年12月(5)』。Ref.C12070167100。 
    • 『昭和18年1月〜4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)』。Ref.C12070176200。 
    • 『昭和17年7月〜9月 内令 3巻/昭和17年8月分(2)』。Ref.C12070164500。 
    • 『昭和18年9月〜10月 内令4巻/内令昭和18年9月(1)』。Ref.C12070180400。 
    • 『昭和18年9〜10月 内令4巻/内令昭和18年10月(5)』。Ref.C12070181500。 
    • 『自昭和19年1月〜至昭和19年7月 内令/昭和19年3月(1)』。Ref.C12070194700。 
    • 『昭和19年1月〜7月 内令/昭和19年3月(5)』。Ref.C12070196900。 
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。Ref.C12070195500。 
    • 『昭和19年9月〜12月秘海軍公報号外/11月(3)』。Ref.C12070497900。 
    • 『昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報号外/3月(2)』。Ref.C12070504300。 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/4月(3)』。Ref.C12070504700。 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/5月(3)』。Ref.C12070505000。 
    • 『昭和12年12月1日現在 10版 内令提要追録第3号原稿/巻1 追録/第3類 定員(1)』。Ref.C13071973800。 
    • 『昭和13年12月25日現在 10版 内令提要追録第4号原稿/巻1 追録/第3類 定員(6)』。Ref.C13071977300。 
    • 『昭和14年12月25日現在 10版 内令提要追録第6号原稿/巻1 追録/第3類 定員(4)』。Ref.C13071985800。 
    • 『昭和14年12月25日現在 10版 内令提要追録第6号原稿/巻1 追録/第6類 機密保護』。Ref.C13071986300。 
    • 『昭和14年12月25日現在 10版 内令提要追録第6号原稿/巻2 追録/第13類 艦船(1)』。Ref.C13071987300。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。 
  • 『日本駆逐艦史』 世界の艦船 1992年7月号増刊 第453集(増刊第34集)、海人社、1992年。ISBN 4-905551-41-2 
  • (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 福田啓二/編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 牧野茂福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 『駆逐艦朝潮型・秋月型』 丸スペシャル 日本海軍艦艇シリーズNo.19、潮書房、1978年7月。 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』光人社、1990年5月。ISBN 4-7698-0460-1 
  • 森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』グランプリ出版、1995年1月。ISBN 4-87687-154-X 
  • 「駆逐艦 一般計画要領書 附現状調査 昭和十八年七月」。