膳余磯
表示
時代 | 古墳時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 荒礪、荒礪命 |
官位 | 初代若狭国造 |
主君 | 履中天皇、允恭天皇 |
氏族 | 膳臣のち稚桜部臣 |
膳 余磯(かしわで の あれし)あるいは稚桜部 余磯(わかさくらべ の あれし、生没年不詳)は、日本古代の5世紀前半の豪族で初代の若狭国造。姓は臣。
記録
[編集]『日本書紀』巻第十二に、磐余池(磐余市磯池)が履中天皇2年11月に築造されたことが記述されており[1]。翌年の冬、天皇は両俣船(ふたまた)を浮かべて遊宴をしたのだが、その折りに、酒を献じたのが余磯であった。その時天皇の盃に季節外れの桜の花が紛れ込み、天皇は訝しく思い、物部長真胆に命じて、どこから桜の花が迷い込んで来たのか調べさせた。長真胆は見事桜の木を捜し出して献上した。このことがきっかけで天皇の宮は「磐余稚桜宮」と命名され、余磯と長真胆の二人はそれぞれ稚桜部臣・稚桜部造の氏姓を得たという[2]。
『古事記』には、この時の出来事が
亦此(こ)の御世(みよ)に、若桜部臣等に若桜部の名を賜ひ
とだけ記述されている[3]
膳氏は天皇の食膳に奉仕する氏族で、故にこの栄誉を獲得したのであった。ただ、この説話の信憑性は薄く、氏族名は御食つ国である「若狭」の国名に由来するとの説が有力である。『旧事本紀』「国造本紀」の若狭国造の項目に、「遠飛鳥朝(允恭天皇)御代、膳臣祖佐白米命(さしろよねのみこと)児荒礪命(あらとのみこと)賜国造を定む」とあり、初代若狭国造とされる[4]。
『書紀』第二十九によると、天武天皇13年(684年)、八色の姓で若桜部臣一族は朝臣を賜姓されている[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本書紀』(二)・(五)岩波文庫、1994年、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)・(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年