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脇田和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1960年の脇田

脇田 和(わきた かず、1908年明治41年)6月7日[1] - 2005年平成17年)11月27日[1])は、昭和期に活躍した日本男性洋画家新制作協会創立会員。東京藝術大学名誉教授。実子は洋画家の脇田愛二郎

経歴

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1908年東京都港区青山に生まれる[1]1923年、姉夫婦の仕事の都合で、旧制青山学院中学部(現青山学院中等部・高等部)を中退し[1]、1925年ベルリン国立美術学校に入学[1]。人体デッサン、遠近法木口版画七宝等絵画に関するさまざまな技法を学ぶ。1930年9月、卒業時に美術学校より金メダルを授与される[1]。同年、帰国[1]

1932年太平洋画会に入選し[1]帝展にも入選する[1]1935年二部会帝国美術院改革に反対する会員が立ち上げた組織)の展覧会で昭和洋画奨励賞を受賞[1][2]1936年新制作派協会(現在の新制作協会)の結成に加わり、以後同協会展に出品を重ねる[1]。戦中は軍部の記録映画作成や報道部として活動し[1]、1945年に相模湖付近へ集団疎開した際には芸術家村を構想した[1]

脇田美術館

1955年日本国際美術展で最優秀賞[1]1956年毎日美術賞グッケンハイム国際美術展国内賞を受賞[1]1964年東京芸術大学助教授[1]、1968年同教授[1]1970年に同大学を退官[1]1991年軽井沢脇田美術館を開館して館長となる[1]。勲四等旭日小綬章[要出典]1998年文化功労者[1]。1999年東京藝術大学名誉教授[1]

2005年11月27日、心筋梗塞のため死去[1]

主な作品

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  • 『窓』 油彩145.5×112.1cm(1966年
  • 『対話する鳥たち』 油彩116.7×91cm(1972年
  • 絵本の挿絵に『おだんごぱん』(ロシア民話、訳:瀬田貞二)がある。

主な作品収蔵先

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 脇田和 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所. 2024年2月17日閲覧。
  2. ^ 二部会賞に三田康『東京日日新聞』昭和10年10月17日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p423 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

関連項目

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