脂習
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脂 習(し しゅう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての政治家。字は元升。司隷京兆尹(陝西省)の人。
経歴
[編集]後漢に仕え、献帝の長安遷都に従い、長安脱出、洛陽帰還、許都遷都にも同行した。
建安七子の一人である孔融と親しく、いつも孔融の剛直さを戒めていた。曹操に憎まれた孔融が殺されたとき、許都の人は誰一人としてこの遺体を収容しようとはしなかった。脂習はこれを聞くと、急ぎ馳けつけて屍を撫で「文挙どのはわしを見捨てて死んでしまわれた。わしも生きていて何としよう」といった。これを聞きつけた曹操は脂習を逮捕させたが、その誠実さに感じ入り放免した。後に脂習が曹操に謝罪すると、曹操は親しみを込めて字で呼びかけ脂習を労り、住居と食料を与えた。
その後、魏の曹丕は脂習が前漢の欒布[1]にも似た信義の士であるとして召しだそうとしたが、高齢を理由に拒絶されたため、中散大夫[2]の官を与えた。
死去した際は80歳を超えていたという。