胡嗣瑗
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胡 嗣瑗 | |
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『大満洲国建国紀念写真帖』(1934年) | |
プロフィール | |
出生: |
1869年8月21日 (清同治8年7月14日)[1] |
死去: | 1949年[2] |
出身地: | 清貴州省貴陽府 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 胡嗣瑗 |
簡体字: | 胡嗣瑗 |
拼音: | Hú Sìyuàn |
ラテン字: | Hu Szu-yüan |
和名表記: | こ しえん |
発音転記: | フー スーユエン |
胡 嗣瑗(こ しえん、中国語: 胡嗣瑗; 拼音: Hú Sìyuàn; ウェード式: Hu Szu-yüan)は清末、中華民国、満州国の政治家。字は琴初、晴初。
事績
[編集]1903年(光緒29年)、癸卯科進士となり、翰林院編修に任ぜられた。後に公立天津北洋法政学堂総弁となっている[3]。辛亥革命勃発直後に江蘇省で道尹に任ぜられ、後に江蘇督軍馮国璋の下で督軍公署秘書長となった。1917年(民国6年)の張勲復辟に際して張勲に加担し、内閣左丞に任命される。復辟失敗後は罷免され、杭州西湖湖畔に隠棲した[2]。
1924年(民国13年)の北京政変(首都革命)により愛新覚羅溥儀が天津に移されると、胡嗣瑗は清室駐天津弁事処顧問に任ぜられた[2]。満州国建国の活動にも参画し[2][3]、正式に建国された1932年(大同元年)3月9日に執政府秘書長に任命されている[4]。満州帝国へ改組される直前の1934年(康徳元年)2月28日、参議府参議に転じ、1939年(康徳6年)4月24日まで在任した[5]。満州国滅亡後の1949年に死去。享年81。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7805074135。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。