胡仁源
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胡仁源 | |
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『改訂 現代支那人名鑑』(1928年) | |
プロフィール | |
出生: | 1883年(清光緒9年) |
死去: |
1942年(民国31年) 中華民国 |
出身地: | 清浙江省湖州府(現在の呉興区) |
職業: | 政治家・学者・教育者 |
各種表記 | |
繁体字: | 胡仁源 |
簡体字: | 胡仁源 |
拼音: | Hú Rényuán |
ラテン字: | Hu Jen-yüan |
和名表記: | こ じんげん |
発音転記: | フー レンユエン |
胡 仁源(こ じんげん)は清末民初の政治家・工学者・教育者・翻訳家。北京政府で教育総長となった。字は次珊。
事跡
[編集]1902年(光緒28年)、壬寅科挙人となる。公立京師大学堂を卒業後に海外留学し、仙台高等学校とイギリスの「テールモ大学」[1]を卒業した。帰国後は、京師大学堂文科学長に就任する。さらに上海江南船塢工廠副総理をつとめた。
中華民国成立後の1913年(民国2年)、北京大学予科学長兼工科学長となる。翌年、北京大学校長署理となり、1918年(民国7年)までその地位にあった。1924年(民国13年)、国立北京交通大学教務長に就任する。1926年(民国15年)3月、北京政府の賈徳耀内閣・胡惟徳臨時内閣において教育総長をつとめた。同年5月、辞任し、国立浙江大学工学院教授に転じた。
著書に『投影幾何』(1935年)、『造船』(1933年)があり、また、シラーの『ヴァレンシュタイン』(1931年)やカントの『純粋理性批判』(1929年)、ゲーテの『エグモント』、バーナード・ショーの『聖女ジョウン(ジャンヌ・ダルク)』(1935年)を中国語訳した。これらの著作・翻訳は、いずれも商務印書館から刊行されている。
1942年(民国31年)、病没。享年60。
注
[編集]- ^ 橋川編、271頁などの文献に記載が見られるが、実際にいかなる大学を指すのかは不詳。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』中華法令編印館、1940年。
中華民国(北京政府)
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