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胡仁源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
胡仁源
『改訂 現代支那人名鑑』(1928年)
プロフィール
出生: 1883年光緒9年)
死去: 1942年民国31年)
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 浙江省湖州府(現在の呉興区
職業: 政治家・学者・教育者
各種表記
繁体字 胡仁源
簡体字 胡仁源
拼音 Hú Rényuán
ラテン字 Hu Jen-yüan
和名表記: こ じんげん
発音転記: フー レンユエン
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胡 仁源(こ じんげん)は清末民初の政治家・工学者・教育者・翻訳家。北京政府で教育総長となった。次珊

事跡

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1902年光緒28年)、壬寅科挙人となる。公立京師大学堂を卒業後に海外留学し、仙台高等学校とイギリスの「テールモ大学」[1]を卒業した。帰国後は、京師大学堂文科学長に就任する。さらに上海江南船塢工廠副総理をつとめた。

中華民国成立後の1913年民国2年)、北京大学予科学長兼工科学長となる。翌年、北京大学校長署理となり、1918年(民国7年)までその地位にあった。1924年(民国13年)、国立北京交通大学教務長に就任する。1926年(民国15年)3月、北京政府賈徳耀内閣・胡惟徳臨時内閣において教育総長をつとめた。同年5月、辞任し、国立浙江大学工学院教授に転じた。

著書に『投影幾何』(1935年)、『造船』(1933年)があり、また、シラーの『ヴァレンシュタイン』(1931年)やカントの『純粋理性批判』(1929年)、ゲーテの『エグモント』、バーナード・ショーの『聖女ジョウン(ジャンヌ・ダルク)』(1935年)を中国語訳した。これらの著作・翻訳は、いずれも商務印書館から刊行されている。

1942年(民国31年)、病没。享年60。

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  1. ^ 橋川編、271頁などの文献に記載が見られるが、実際にいかなる大学を指すのかは不詳。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』中華法令編印館、1940年。 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
馬君武
教育総長
1926年3月 - 5月
次代
王寵恵