肥後勤王党
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この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2024年10月) |
肥後勤王党(ひごきんのうとう)は、幕末の肥後藩において勤皇志士によって結成された組織。
幕末の動乱期、肥後の地では勤王思想が密かに広がっていた。国学が盛んだった阿蘇大宮司家を中心に、勤王派のグループが形成されていた。しかし、幕府に忠実な肥後藩では、勤王倒幕は危険思想とみなされ、容赦なく弾圧されていた。そのような状況下、肥後の勤王志士たちは藩内での活動に限界を感じ、攘夷倒幕に積極的だった長州藩に身を投じることを決意する。彼らは長州藩と共に行動し、幕府打倒に向けて奔走した。
しかし、幕府崩壊後の政局では、薩摩藩と会津藩が手を組み、長州藩を京都から追放してしまう。これが禁門の変である。この事態に危機感を抱いた肥後勤王党の宮部鼎蔵らは、長州藩を京都に復帰させるべく、密かに京都に潜入した。運命の日、鼎蔵たちは池田屋に集まり、同士と論じていた。しかし、そこに新撰組が踏み込み、首領格だった鼎蔵は、仲間たちを逃がすために単身新撰組に立ち向かい、壮絶な戦いの末に自決して国事に殉じた。[1]