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マクシム・グレク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
聖マクシム・グレクから転送)
マクシム・グレク
マクシム・グレクのイコン(作者・年代不詳)
克肖者
他言語表記 : Максим Грек
: Μάξιμος ὁ Γραικός
: Maximus the Greek
生誕 1475年頃
アルタ (ギリシャ)
死没 1556年
至聖三者聖セルギイ大修道院セルギエフ・ポサードロシア
崇敬する教派 正教会
主要聖地 至聖三者聖セルギイ大修道院生神女就寝大聖堂不朽体が安置されている
記念日 1月21日ユリウス暦使用教会ではグレゴリオ暦の2月3日に相当)
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マクシム・グレク[1]ロシア語: Максим Грек, ギリシア語: Μάξιμος ὁ Γραικός, 英語: Maximus the Greek, 1475年頃 - 1556年)は、正教会聖人克肖者)。修道士、作家、評論家、翻訳者。マクシム・グレークと転写される事もある。現代ギリシャ語からはマクシモス・オ・グレコスと転写出来る。ギリシャ語ではマクシモス・オ・アギオリティスΜάξιμος ὁ Ἁγιορήτης)とも表記される[2]

グレクもしくはグレークとは、「ギリシャ人」を意味する。同様の「グレク」の称号を持つ著名な正教会の聖人としてフェオファン・グレクが居る。

その呼び名の通りマクシム・グレクはギリシャ人であり、アトス山修道士であったが、ロシアから招聘され、聖書祈祷書聖人伝等の翻訳に従事し、至聖三者論(三位一体論)や生神女論の分野をはじめとして異端に対する論駁に活躍、至聖三者聖セルギイ大修道院で永眠した。

生涯

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アルタ (ギリシャ)1475年頃に生まれる[3][4]。俗名はミハイル・トリヴォリスΜιχαήλ Τριβώλης[5]

若い頃には広く西欧を旅行し、パリフィレンツェヴェネチアで学ぶ。帰国後はアトス山ヴァトペディ修道院Μονή Βατοπεδίου)に入り修道士となる[3]

当時、ロシアで異端が数多く出現して思想的混乱が起きている事を憂慮したモスクワ大公ヴァシーリー3世は、コンスタンディヌーポリ総主教およびアトス山に対し、聖書祈祷書ギリシャ語から教会スラヴ語に正確に翻訳する事が出来る、優れたギリシャ人修道士の派遣を要請した。当初は修道院長老サヴァスの派遣が要請されたが、修道院側は代わりにマクシモス(マクシム)を何人かの修道士とともに派遣する事になった[3][6]

招聘に応えてロシアに赴いたマクシムであったが、当初モスクワ府主教ヴァルラアム(在任:1511 - 1522)はマクシムの翻訳を高く評価していたものの、後任のモスクワ府主教ダニイル(在任:1522 - 1539)とは何を翻訳するかを巡って見解の対立が起こり関係が悪化。大公ヴァシーリー3世ソロモニヤ・サブーロヴァと不妊を理由に離婚し再婚することをマクシムが批判すると、大公と府主教はマクシムを幽閉した。この際、獄中に天使が現れマクシムを励ますという奇蹟があったと教会の伝承は伝えている[3]。1525年の教会会議はマクシムを異端として断罪した。

6年後に牢獄から解放されたマクシムはトヴェーリへ移送され、その後20年間、教会の監視下に置かれた生活を送る。ただし当地を管轄していた主教アカキイは善良な人物であり、マクシムを潔白な受難者であると捉えて、マクシムを丁重に扱った[3]。なお、のちに主教アカキイは成聖者として列聖されている[7]

至聖三者聖セルギイ大修道院生神女就寝大聖堂

20年が過ぎると、ようやくマクシムは解放される。マクシムは最晩年をセルギエフ・ポサード至聖三者聖セルギイ大修道院で過ごした。この時既に70歳を越えていた[3]。監禁・監視下に置かれるという迫害と、その間も続けられた膨大な量の翻訳はマクシムの健康を害するものであったが、マクシムの精神は衰える事無く、最期まで翻訳事業は続けられた[3]

1556年1月21日(ユリウス暦)、マクシムは至聖三者聖セルギイ大修道院で永眠した[3]不朽体は同大修道院内の生神女就寝大聖堂に、装飾された聖櫃に納められて安置されている[8]

著作等の業績と評価

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聖マクシム・グレクには膨大な著作・翻訳がある[6]

翻訳されたものとして、聖詠経使徒経三歌経三歌斎経五旬経)といった祈祷書聖金口イオアン聖大ワシリイ神学者グリゴリイなどの聖師父の著作、シメオン・メタフラストの聖人伝[6]聖詠経使徒経の註解[3]などが挙げられる。

至聖三者論(三位一体論)・藉身(受肉)論を巡る異端への反駁のほか、生神女マリヤを巡る異端の見解への論駁など、異端反駁の著作も数多く遺されている。これらの著作は、16世紀のロシアがかなり思想的に混乱していた事を示しているとされる[6]

ロシア正教会における、所有派と非所有派の論争においては、聖ニル・ソルスキーとともに非所有派の側に立った。

初期キリスト教時代と同様、当時のロシアに流行していた異端側の書物は正統側に破棄されて残っていない。当時どのような異端が流行していたかを研究するにあたっては、正統側の論駁を元に推測するしか手段がない。そうした中で、マクシム・グレクの著作は異端への論駁を豊富に含んでいるものであり、マクシム・グレクはロシアのキリスト教史においてエイレナイオスに匹敵すると評される事がある[6]

脚注

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  1. ^ 転写出典:『正教会暦 2010年』日本ハリストス正教会教団
  2. ^ 現代ギリシャ語読み。古典ギリシャ語再建音ではマクシモス・ホ・ハギオレーテースと転写出来る。別名出典:Maximus the Greek
  3. ^ a b c d e f g h i The Monk Maxim the Greek - HOLY TRINITY RUSSIAN ORTHODOX CHURCH内のページ (英語)
  4. ^ 媒体によっては1470年頃とするものがある。
  5. ^ 現代ギリシャ語転写。古典ギリシャ語再建音ではミカエール・トリボレース。出典:Ο Όσιος Μάξιμος ο Γραικός
  6. ^ a b c d e 御子柴道夫『ロシア宗教思想史』37頁 - 45頁、成文社、2003年03月 ISBN 9784915730375
  7. ^ 1. Святитель Акакий, епископ Тверской и Кашинский
  8. ^ Рака с мощами Максима Грека Успенский Собор Троице Сергиева Лавра

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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