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耶律奴瓜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

耶律奴瓜(やりつ どか、生没年不詳)は、(契丹)の軍人は延寧。

経歴

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耶律阿保機の弟の耶律蘇の孫にあたる。膂力にすぐれ、鷹や隼の調教を得意とした。統和4年(986年)、北宋楊業の侵入を受けると、奴瓜は横帳郎君から黄皮室乣都監となり、宋軍を撃破して、奪われた城邑を奪回した。凱旋すると、諸衛小将軍の位を加えられた。再び北宋を攻撃して功績を挙げ、黄皮室詳穏に転じた。統和6年(988年)、先鋒として北宋を攻撃し、定州で宋の李忠吉の軍を破った。東京統軍使となり、金紫崇禄大夫の位を加えられた。統和13年(995年)、奚和朔奴の下で兀惹を討って敗戦し、金紫崇禄大夫の位を剥奪された。

統和19年(1001年)7月、南府宰相となった。統和21年(1003年)、また北宋を攻撃し、王継忠を望都で捕らえ、多数の宋兵を捕殺すると、功績により同中書門下平章事の位を加えられた。統和26年(1008年)、遼興軍節度使となり、まもなく南府宰相に復帰した。統和30年(1012年)、西北部で反乱が起こると、耶律弘古らとともに乱の鎮圧にあたった。開泰初年、尚父の位を加えられ、死去した。

伝記資料

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