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長老支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
老人支配から転送)

長老支配(ちょうろうしはい、英語: gerontocracy)とは、老練家によって支配される政治体制である。長老政治とも呼ばれる。対義語は「青年政治(英語: juvenocracy)」という。支配的地位にあるものをジェロントクラート(gerontocrat)という。

主な長老支配

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長老支配は、主に共産主義国家の統治を指した。ソビエト連邦では、ソビエト連邦共産党書記長レオニード・ブレジネフ1982年に75歳で死去する時まで最高指導者として権力を振い、その次のユーリ・アンドロポフ1984年に69歳で死去)、そのまた次のコンスタンティン・チェルネンコ1985年に73歳で死去)も同様に国家を支配した。ブレジネフ晩年からゴルバチョフ就任まで、指導者の健康問題は西側におけるソ連報道の重大関心事であり続けた。

中華人民共和国建国の父である毛沢東も、1949年の建国から1976年に83歳で没するまで、中国共産党中央委員会主席として最高指導者の地位にあった。最晩年の毛は執務どころか会話すら困難な状態であったが、当時の中国では毛批判そのものがタブーとなっており、退任要求が出ることはなく死去するまで在任した。毛沢東の死去後しばらくして、文化大革命で弾圧されていた旧実権派の革命第一世代指導者たちが政権を掌握する。彼らは八大元老と呼ばれた。そのリーダー格として事実上の最高権力者の地位にあった鄧小平は、長老たちの権力抑制や引退勧奨に努めながらも、自身は90歳近くになっても中国共産党中央軍事委員会主席の肩書を保持し、最高指導者として中国に君臨した。

また共産主義国家以外では、日本の自由民主党では老年の派閥の領袖が権力を掌握して役職が割り振られたり、内閣総理大臣経験者がキングメーカーの如き振る舞いをしたり、党税制調査会で税制に精通した長老議員(インナー)が税制について実権を掌握していることなどを、長老支配として扱う場合がある。

過去の日本のジェロントクラートには、1910年代の政界や帝国陸軍における山縣有朋(及び山縣を筆頭とする元老)、1930年代前半の海軍における東郷平八郎伏見宮博恭王などの例がある。山縣・東郷・伏見宮はいずれも元帥として、制度上終身現役を保証されていた。

1970年代後半から1980年代前半の日本政界で元首相の田中角栄が退任後に大きな影響力をふるったように、退任した人物の支配と年長者の支配がイコールでないことがある。田中は「角栄支配」「闇将軍」と言われた時期(56歳から64歳まで)のどの首相より年少で(中曽根と同年生まれ)、田中派内にも西村英一など田中より年長の大物議員がいた[注 1]

政治以外の分野でも、歌舞伎大相撲といった師弟関係を基本とする伝統的な社会や、宗教の世界では何十年も修行して来た人がトップになるので老人支配が発生し易い。大相撲のように、親方定年制によって一定の歯止めが存在する場合もあるが、この場合でも相撲部屋の継承などについて定年退職した過去の師匠が影響力を発揮する例がある(たとえば時津風部屋における豊山勝男)。

主な日本のジェロントクラート

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脚注

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注釈
  1. ^ 田中の後任首相だった三木武夫は田中より11歳年上で、その次の首相の福田赳夫も田中より13歳年上、福田の後任の大平正芳は田中より8歳年上で、その次の鈴木善幸も田中より7歳年上だった。4人とも早生まれの為学年は早生まれでは無い田中より更にひとつ上である。鈴木の後任首相の中曽根康弘は田中と同年同月生まれで同学年である。なお、上記の5人で田中より初当選が先なのは三木だけで、鈴木と中曽根は田中と同期当選、福田と大平は田中より後に初当選している。また、中曽根の後任首相の竹下登は田中派に所属していたが、首相就任当時は田中と袂を分かち竹下派を創設、田中も脳卒中で倒れてこの時期は政治活動がまともに出来ない状態だった為、それ以降の総理には田中は関与していないが、細川護煕羽田孜橋本龍太郎小渕恵三とその後も田中派に所属した経験のある総理が誕生している。竹下以降の歴代総理は全て田中より年下(宮澤喜一が田中より1歳年下)である。また、前述の金丸信も田中派に所属して田中を「オヤジ」と呼んでいたが、金丸は田中より4歳年上である。
出典

関連項目

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