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羽幌駅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
羽幌バスターミナルから転送)
羽幌駅
はぼろ
Haboro
興津仮乗降場 (3.7 km)
(6.7 km) 築別
所在地 北海道苫前郡羽幌町南7条3丁目
北緯44度21分38.7秒 東経141度42分21.3秒 / 北緯44.360750度 東経141.705917度 / 44.360750; 141.705917
所属事業者 日本国有鉄道(国鉄)
所属路線 羽幌線
キロ程 58.3 km(留萠起点)
電報略号 ハホ
駅構造 地上駅
ホーム 2面2線
開業年月日 1932年昭和7年)9月1日[1]
廃止年月日 1987年昭和62年)3月30日[1]
乗換 羽幌炭礦鉄道1970年12月25日廃止)
備考 羽幌線廃線に伴い廃駅[1]
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1977年の羽幌駅と周囲約750m範囲。右上が幌延方面。千鳥状にずれた国鉄型配線の2面3線を持ち、駅舎横に三角状の貨物ホームとその内外それぞれに引込み線、駅裏に多数の側線を有していた。駅舎はコンクリート製で、ホームは跨線橋で連絡しており、島ホーム上には待合室が見える。駅裏には木工場が並び、駅裏の南西側(左下側)には広い営林署のストックヤード(土場)が見える。このヤードへは、1963年まで羽幌川上流の上羽幌や奥羽幌から羽幌森林鉄道が乗り入れており、ヤードから右下へ90°のカーブを描いてかつての軌道跡が見える。羽幌駅はまた、天売、焼尻へのフェリー航路の玄関口としての役目を担っていた。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

羽幌駅(はぼろえき)は、かつて北海道留萌管内苫前郡羽幌町南7条3丁目に設置されていた、日本国有鉄道(国鉄)羽幌線廃駅)である。電報略号ハホ事務管理コードは▲121614[2]

1986年(昭和61年)10月まで運行されていた、急行「はぼろ」の停車駅であった。また、一時期は羽幌炭礦鉄道(1970年12月25日廃止)も当駅まで乗り入れていた。

羽幌線の廃止後、同所に設置された沿岸バス羽幌ターミナル(はぼろターミナル)についてもここで記す。

歴史

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駅構造

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廃止時点で、単式ホーム島式ホーム(片面使用)複合型2面2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった[5]。互いのホームは、単式ホーム北側と島式ホーム南側を結ぶ跨線橋で連絡した。駅舎側単式ホーム(西側)が上下共用の1番線、島式ホーム(東側)が上りの2番線となっていた。ほかに貨物側線を多数有していた(1983年(昭和58年時点で島式ホームの外側に4線、1番線の幌延方から分岐し駅舎北側の切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を3線、そのほか構内南東側から専用線が1線分岐していた[5])。

職員配置駅となっており、駅舎は近代的な鉄筋造りで[5]、構内の西側に位置し単式ホーム中央部に接していた。駅舎内に売店を有した。また「わたしの旅スタンプ」が設置されていた[5]

駅名の由来

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当駅が所在する地名より。アイヌ語に由来するが諸説ある。

利用状況

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  • 1981年度(昭和56年度)の1日乗降客数は513人[5]

駅周辺

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羽幌ターミナル

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羽幌ターミナル
羽幌ターミナルへの道路。右手がターミナル

駅跡地に沿岸バスの「羽幌ターミナル」が設置されている。住所は羽幌町南7条4丁目。

1~5番のりばと車庫を有し、沿岸バスの都市間バス路線バスと羽幌町から受託しているスクールバスが乗り入れる。従来は同町南3条2丁目の本社施設を羽幌ターミナルとして運用していたが、旧駅跡のバスターミナル設置に伴い「本社ターミナル」に改称のうえ引き続き使用している。隣接する町営駐車場を利用したパーク&ライドも実施している。

上記の羽幌ターミナルのほか、駅舎跡地には羽幌地区をイメージしたタイル張りの壁が設置されている[6]。また、旧駅前通りの歩道に腕木式信号機が移設設置されている。

隣の駅

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日本国有鉄道
羽幌線
苫前駅 - <興津仮乗降場> - 羽幌駅 - 築別駅
かつて当駅と築別駅との間に下ノ滝仮乗降場(しものたきかりじょうこうじょう)が存在した(1956年(昭和31年)11月1日開業、1972年(昭和47年)2月8日廃止)。

羽幌森林鉄道

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1942年(昭和17年)、羽幌川上流の森林資源を羽幌駅南側のストックヤード(土場)まで運搬する14kmの森林鉄道が、当時の帝室林野管理局旭川支局羽幌出張所の管轄として竣工し、初めて木材が直接駅へ運搬された。1947年(昭和22年)からは旭川営林局羽幌営林署の管轄となり、また、竣工以後毎年のように2-4km奥地へ延長され、1957年(昭和32年)に42㎞、最終的に総延長44㎞に達した。その間1954年(昭和29年)からは民間貨物の混合輸送も行っている。戦後の年間輸送量は、1956年(昭和31年)の9万石をピークに、平均約5万石であった。当初蒸気機関車2台と6tガソリン機関車1台で運行されたが、1951年(昭和26年)からディーゼル機関車に切り替えられ、1958年(昭和33年)の記録によれば5t車8台、6t車、7t車、9t車、10t車各1台ずつ計12台を保有していた。その後徐々にトラック輸送に切り替えられて、1963年(昭和38年)に全面廃止された。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、872頁。ISBN 978-4-533-02980-6 
  2. ^ 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、231頁。doi:10.11501/1873236https://doi.org/10.11501/18732362022年12月10日閲覧 
  3. ^ 昭和7年鉄道省告示第320号(『官報』第1697号、昭和7年8月25日、p.710.
  4. ^ 昭和16年鉄道省告示第247号(『官報』第4473号、昭和16年12月4日、p.166.
  5. ^ a b c d e f 宮脇俊三 編『国鉄全線各駅停車1 北海道690駅』原田勝正、小学館、1983年7月、200頁。ISBN 978-4093951012 
  6. ^ 本久公洋『北海道の鉄道廃線跡』北海道新聞社、2011年9月、215頁。ISBN 978-4894536128 

関連項目

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