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羅森

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

羅森(らしん、1821年-1899年)はマシュー・ペリーに随行した中国人通訳1854年、ペリーの二度目の来航時に日本を訪れた。日本滞在中の経験を「日本日記」として著し、幕末の日本を清国アメリカに紹介した。字は向喬広東の出身。

経歴・人物

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科挙に通るほどの教養があったとされているが、生い立ち、ペリーに随行するまでの身分はよくわかっていない[1]。ペリーの公式通訳官、サミュエル・ウィリアムズ(中国名:衛三畏)はペリーの2回目の来航時(1854年)、香港で羅森を雇った[2][注 1]

羅森は英語が達者であり、漢文漢詩に精通していたが、日本語はまったく話せなかった。いっぽう江戸幕府の役人は英語はできなかったが四書五経などの素読を通じて漢文は書けた。したがって日米和親条約の締結交渉では羅森が筆談通訳として活躍した。日米和親条約には漢文版があった[4]

ペリー一行は琉球横浜下田箱館等に寄港した。その間羅森は林復斎平山省斎堀達之助合原猪三郎吉田松陰大槻磐渓関藍梁などと交流した。羅森は香港に帰着後、琉球と日本に関する見聞記を発表し、1854年11月に英華書院から発行された月刊誌「遐邇貫珍中国語版英語版」に中国語の「日本日記」が掲載された。英語に翻訳されたものがアメリカ議会の公式文書「ペリー艦隊日本遠征記」(1856–1857)に収録されたが、そこでは羅森の名は伏せられて「ある中国人」とされている[5][6][7]

吉田松陰はアヘン戦争以降の太平天国の乱を含む清の事情を羅森が著した「満清紀事」(別名「南京紀事」)を「清国咸豊乱記」として注釈を加えて翻訳し、幕末の思想に影響を与えた[8]

羅森は日本滞在中、日本人から扇子などに漢文を書くことを頼まれたり[9]、自筆入りの扇子を送ったりした。箱館入港時に応接した松前藩家老・松前勘解由に贈った扇子は子孫から松前町に寄贈され、町の有形文化財となっている[10]

また、1862年に文久遣欧使節が香港に上陸した際に、羅森は一行と交流している[11]

脚注

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注釈

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  1. ^ ウィリアムズは羅森を「博識な先生で、アヘン患者ではない」と記している[3]

出典

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  1. ^ 陶 徳民「羅森来日の契機について」『或問 WAKUMON』第91巻1 pp.91-92、近代東西言語文化接触研究会、2000年9月10日。 
  2. ^ Biography of Samuel Wells Williams in The Far East, New Series, Volume 1, December 1876, pages 140-2.
  3. ^ サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ 2022, p. 154.
  4. ^ 垂秀夫「歴史に恥じない外交を」日曜コラム 『産経新聞』2024年9月8日。
  5. ^ 程 永超「羅森の目に映った「鎖国」と「開国」の日本」『アジアの歴史と文化』16 pp.131-142、山口大学アジア歴史・文化研究会、2012年3月31日。 
  6. ^ ツー ティモシー ユンフイ「黒船に乗ってきた中国人」『関西学院大学国際学研究』第9巻1 pp.21-43、関西学院大学、2020年3月30日。 
  7. ^ 方 亮「『遐邇貫珍』に関する一考察:日本関係記事をめぐって」『人文公共学研究論集』42 pp.1-18、千葉大学、2021年3月29日。 
  8. ^ 陶 徳民「松陰における太平天国認識とその政治思想の転換」『日本思想史学』36 pp.54-56、日本思想史学会、2004年。 
  9. ^ サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ 2022, p. 268.
  10. ^ 斉藤流松前家資料” (pdf). 松前町. 2024年10月9日閲覧。
  11. ^ 尾佐竹猛『幕末遣外使節物語』講談社 <講談社学術文庫>、1989年、173頁。ISBN 4-06-158907-5 

参考文献

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