練馬映画劇場
練馬映画劇場 Nerima Movie Theatre | |
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情報 | |
正式名称 | 練馬映画劇場 |
旧名称 | 板橋練馬劇場 |
完成 | 1939年 |
開館 | 1939年3月 |
閉館 | 1989年12月 |
収容人員 | 187人 |
用途 | 映画上映 |
所在地 |
〒176-0001 東京都練馬区練馬1丁目6番22号 |
最寄駅 | 練馬駅 |
特記事項 |
略歴 1939年3月 板橋練馬劇場開館 1989年12月 閉館 |
練馬映画劇場(ねりまえいがげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7]。1939年(昭和14年)3月、東京府東京市板橋区練馬南町(現在の東京都練馬区練馬)の練馬駅前に板橋練馬劇場(いたばしねりまげきじょう)として開館した[1][2][4]。1941年(昭和16年)前後には練馬映画劇場と改称している[1]。1989年(平成元年)12月、閉館した。若き日の中上健次が通い[8]、稲川方人の詩に館名が謳われていることでも知られる[9]。通称・愛称は練馬映画(ねりまえいが)[8]。
沿革
[編集]データ
[編集]- 所在地 : 東京都練馬区練馬1丁目6番22号[6][7]、跡地は「ライオンズステーションプラザ練馬」の位置[10][11][12]
- 経営 :
- 支配人 :
- 構造 : 木造二階建 [3][4][5][6][7]
- 観客定員数 : 247名(1941年[1] - 1943年[2]) ⇒ 220名(1951年[3]) ⇒ 230名(1955年[4]) ⇒ 270名(1956年) ⇒ 230名(1961年[5]) ⇒ 210名(1967年) ⇒ 280名(1973年[6] - 1979年) ⇒ 187名(1984年[7] - 1985年)
概要
[編集]戦前・戦中
[編集]1939年(昭和14年)3月、東京府東京市板橋区練馬南町5丁目7051番地(現在の東京都練馬区練馬1丁目6番22号)の練馬駅前に板橋練馬劇場として開館した[1][2][4]。練馬駅は、1915年(大正4年)4月15日、武蔵野鉄道武蔵野線(現在の西武池袋線)の駅として開業しており、1927年(昭和2年)10月15日には、豊島線(現在の西武豊島線)が開業している。1932年(昭和7年)10月1日には、板橋区が成立しており、同地は北豊島郡練馬町から東京市板橋区になっている。駅の北側には1920年(大正9年)の操業開始以来、鐘淵紡績練馬工場があり、当時は北口がなかったため、工場と映画館は踏切(練馬1号踏切)で結ばれていた。開館当時、練馬駅近辺および戦後に練馬区となる地域には、映画館は同館しか存在しなかった[1][2]。当初の経営者は檜山延吉、支配人も檜山が兼ね、観客定員数は247名であった[1][2]。
1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館の系統は紅系十六番館であった[1][2]。
戦後
[編集]戦後、1947年(昭和22年)8月1日に、同館が位置する地域が板橋区から独立して練馬区を形成した。同区内では、同年11月には大字江古田2237番地(現在の旭丘1丁目71番)に江古田文化劇場(経営・溝口末春)、1950年(昭和25年)6月には大字東大泉812番地(現在の東大泉3丁目17番)に大泉映画館(のちの大泉名画座、経営・円内一男)、1952年(昭和25年)6月には下石神井2丁目1298番地(現在の石神井町6丁目)に石神井会館(のちの石神井映画劇場、経営・渡辺軍蔵)がそれぞれ新設された[4]。 同館は、1950年前後までには経営権が鈴木由又に移っており、支配人も萩原正勝に変わった[3]。1950年に発行された『映画年鑑 1951』には、当時の同館の興行系統はまだ書かれていないが、同館至近の南町5丁目7065番地に新たに木造一階建、観客定員数160名の練馬名画座(経営・内田建三郎、支配人・萩原正勝)が新設されている[3]。練馬名画座は1954年(昭和29年)までには閉館した[3][4]。その後まもなく、練馬映画劇場は、1950年代までには鈴木孝一郎に移っており、支配人も上野国太郎に変わった[4]。当時の同館の興行系統は松竹および大映系であった[4]。同区内では、江古田文化劇場が東宝・松竹系、石神井会館が大映・東映系、大泉映画館が新東宝・東宝系と棲み分けが行われていた[4]。その後、区内の映画館は9館に増加し、1960年(昭和35年)には、同館と江古田文化劇場、石神井映画劇場、大泉名画座のほか、ネリマ東映劇場(豊玉北町5丁目15番地)、練馬文化劇場(練馬北町1丁目142番地)、石神井東映(上石神井1丁目415番地)、大泉東映八光座(東大泉町506番地)、武蔵関映画(関町3丁目111番地)が割拠した[5]。
1970年(昭和45年)12月には、鐘淵紡績練馬工場が廃止された。このころには、同館の経営権が渋谷登志彦に移っており、支配人も渋谷が兼ねた[6]。中上健次(1946年 - 1992年)がエッセイ『ヤクザ映画について』において「練馬にはヤクザ映画専門館のようなムービー東映と、エロ映画専門の練馬映画しかない」と書き、『君の地図を映像の中に展開せよ』において「かかる映画が変るたびに」ヤクザ映画とエロ映画を観た、といううち、「ムービー東映」はネリマ東映劇場(豊玉北5丁目15番)、「練馬映画」はこの時代の同館を指す[8]。ネリマ東映劇場は1972年までに閉館しており、同区内の映画館は、1970年代以降、同館と江古田文化劇場の2館のみになった[6]。1976年(昭和51年)に中上が『岬』で第74回芥川賞を受賞したときの現住所が、同館の至近であった[13]。鈴木志郎康は、同館で『(秘)湯の町 夜のひとで』(監督渡辺護、配給関東映配、1970年)、『畜生道』(監督武田有生、製作・配給六邦映画、1970年)を観たという[14]。江古田文化劇場は、1984年(昭和59年)に閉館している[7]。1988年(昭和63年)に稲川方人が発表した詩集『アミとわたし』(書肆山田)には、『西武線練馬映画劇場のおばあさんへ - アミの手紙 古賀忠昭のために』という詩が収録されている[9]。
1989年(平成元年)12月に閉館し、戦前戦後の50年8か月におよぶ歴史に幕を閉じた。閉館後は同館とともに一帯が解体され、1997年(平成9年)10月、跡地に14階地下1階建のマンション「ライオンズステーションプラザ練馬」が竣工し、現在に至る[10][11][12]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 年鑑[1942], p.10_34.
- ^ a b c d e f g h i j k 年鑑[1943], p.453.
- ^ a b c d e f g h i 年鑑[1951], p.334.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 総覧[1955], p.15.
- ^ a b c d e f g 便覧[1961], p.23-24.
- ^ a b c d e f g h 便覧[1973], p.47.
- ^ a b c d e f g 名簿[1984], p.42.
- ^ a b c 中上[1996], p.129, 447.
- ^ a b 小池ほか[2009], p.52-61.
- ^ a b 東京都練馬区練馬1丁目6番22号、Google ストリートビュー、2013年6月撮影、2014年7月3日閲覧。
- ^ a b 練馬映画劇場、Goo地図、1947年・1963年撮影、2014年7月3日閲覧。
- ^ a b ライオンズステーションプラザ練馬、SUUMO物件ライブラリー、リクルート、2014年7月3日閲覧。
- ^ 高澤[1998], p.19.
- ^ 鈴木[1982], p.223-224.
参考文献
[編集]- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
- 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
- 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
- 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1961年発行
- 『映画年鑑 1973 別冊 映画便覧』、時事映画通信社、1973年発行
- 『映画の弁証 性と欲望のイメージ』、鈴木志郎康、フィルムアート社、1982年3月
- 『映画年鑑 1984 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1984年発行
- 『中上健次全集 14 評論・エッセイ』、中上健次、集英社、1996年7月24日 ISBN 4081450145
- 『評伝中上健次』、高澤秀次、集英社、1998年7月 ISBN 4087743446
- 『やさしい現代詩 自作朗読CD付き』、小池昌代・吉田文憲・林浩平、三省堂、2009年2月10日 ISBN 4385363838
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 東京都練馬区練馬1丁目6番22号 - 2013年6月時点の同館跡地 (Google マップ・Google ストリートビュー)
- 練馬映画劇場 - 1947年・1963年時点の航空写真(Goo地図)
- 練馬映画 - 昭和毎日(毎日新聞社)