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総理遺嘱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
総理遺嘱
總理遺囑
国事遺嘱
作成日1925年2月24日(起草)
1925年3月11日(署名)
作成者汪兆銘
署名者孫文
宋子文
孫科
孔祥熙
邵元沖
戴恩賽中国語版
呉敬恒
何香凝
戴季陶
鄒魯
総理追悼式に出席する蔣介石。総理遺嘱の碑が置かれている(1935年

総理遺嘱(そうりいしょく、: 總理遺囑)とは、中国国民党総理孫文による遺言を指す言葉である。1925年(民国14年)、孫文が京都北京)訪問中に肝癌に倒れて重篤な状態となったことを受け、同年2月24日汪兆銘によって遺嘱が起草された[1]。孫文はこの草案の内容に非常に満足し、一字一句改めさせることなく、死の前日の3月11日に署名した[2][3]宋子文孫科など9名の党要人らも証人として副署した[4][5]

1940年(民国29年)4月1日中華民国国民政府は孫文を正式に「国父」として定めた[6][7]。これに伴い、総理遺嘱は国父遺嘱(こくふいしょく、: 國父遺囑)とも呼ばれるようになった[8]

内容

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家事遺嘱

革命の今後の方針について述べた「国事」と、家族へ向けた「家事」の2部から構成されている[8]。一般的に、「総理遺嘱」といえば「国事」の部分のみを指す場合が多い。

国事遺嘱

余致力國民革命,凡四十年,其目的在求中國之自由平等。積四十年之經驗,深知欲達到此目的,必須喚起民眾及聯合世界上以平等待我之民族,共同奮鬥。
現在革命尚未成功,凡我同志,務須依照余所著建國方略、建國大綱、三民主義及第一次全國代表大會宣言,繼續努力,以求貫徹。最近主張開國民會議及廢除不平等條約,尤須於最短期間,促其實現,是所至囑[9]

(余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求めることであった。四十年の経験を積んで知ったことは、この目的に到達しようと望むなら、何よりもまず民衆を喚起し、平等をもって世界の民族と連合し、共同して奮闘しなくてはならない。
現在、革命はなお未だ成功していない。全ての我が同志は、須く余の著した建国方略建国大綱三民主義および第一次全国代表大会宣言に則って努力を続け、目的を貫徹するよう努めよ。最近主張した国民会議の開会および不平等条約の廃除は、特に短期間内にその実現を図れ。ここに至嘱する[10]。)

孫文   三月十一日補簽

中華民國十四年二月二十四日

筆記者  汪精衛

證明者  宋子文 孫科 孔祥熙 邵元沖 戴恩賽 吳敬恆 何香凝 戴季陶 鄒魯

家事遺嘱

余因盡瘁國事,不治家產,其所遺之書籍、衣物、住宅等,一切均付吾妻宋慶齡,以為紀念。余之兒女已長成,能自立,望各自愛,以繼余志。此囑[11]

(余は国事に尽くしたため、家産を治めなかった。遺した書籍・衣物・住宅など一切は、均しく我が妻、宋慶齢に付与し、もって記念とする。余の子女は既に成長し、自立できる。各々自愛して余の志を継ぐことを望む。ここに嘱す[12]。)

孫文   三月十一日補簽

中華民國十四年二月二十四日

筆記者  汪精衛

證明者  宋子文 孫科 孔祥熙 邵元沖 戴恩賽 吳敬恆 何香凝 戴季陶 鄒魯

第三の遺嘱

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上記の他に、ソビエト連邦(ソ連)宛ての遺嘱(致蘇俄遺書)が英語で作成され、孫文によって署名された[8][13]。この遺嘱ではソ連との強い結束が謳われており、作成の経緯には「コミンテルンミハイル・ボロディンが起草した」「孫文の言葉を口述筆記した」など、諸説ある[14]。数週間前から孫文に承認されていた国事遺嘱・家事遺嘱とは異なり、致蘇俄遺書は孫文の死の前日に突然提出し、急いで署名を求めたものであり、出来も悪かったため、適切でないとの意見が党内で多く上がった[13]。このため、致蘇俄遺書は公表されず、ソ連政府に送られたのみであった[15]

中華人民共和国とソ連の国交樹立から60周年を迎えた2009年ロシア政府は旧ソ連の公文書館で発見された致蘇俄遺書の署名入り原本を北京宋慶齢故居中国語版に寄贈した[16]

後世への影響

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国旗・国父遺像・国父遺嘱に拝礼する頼清徳2024年

総理(国父)遺嘱は中華民国および国民党において重要視され、国民党一党独裁時代の中国大陸および台湾では、集会や式典の冒頭で総理(国父)遺嘱を朗読することが一般的であった[16]

中国共産党第20回全国代表大会を間近に控えた2022年10月13日北京市街にて共産党総書記習近平を非難する横断幕が掲げられる事件(四通橋事件)が発生した。この事件は物理学者彭立発中国語版が引き起こしたとされ、全国代表大会の開会日である10月16日、彼はTwitterに孫文遺嘱の一節をツイートした[17][18]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ サンケイ新聞社 1975, pp. 177–181.
  2. ^ サンケイ新聞社 1975, pp. 180–181, 183.
  3. ^ 劉 1984, pp. 250–252.
  4. ^ サンケイ新聞社 1975, pp. 183–184.
  5. ^ 劉 1984, p. 251.
  6. ^ 國父的由來” (中国語). 孫中山學術研究資訊網. 2013年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月4日閲覧。
  7. ^ 國父生平事蹟簡表” (中国語). 孫中山學術研究資訊網. 2012年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月4日閲覧。
  8. ^ a b c 國父遺囑” (中国語). 孫中山學術研究資訊網. 2017年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月4日閲覧。
  9. ^ 遺囑—壹” (中国語). 中山學術資料庫. 國立國父紀念館 (1925年3月11日). 2025年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月4日閲覧。
  10. ^ 産経新聞社 1975, p. 180.
  11. ^ 遺囑—貳” (中国語). 中山學術資料庫. 國立國父紀念館 (1925年3月11日). 2025年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月4日閲覧。
  12. ^ 産経新聞社 1975, p. 181.
  13. ^ a b 簽字遺囑” (中国語). 中山學術資料庫. 國立國父紀念館 (1925年3月11日). 2025年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月4日閲覧。
  14. ^ サンケイ新聞社 1975, pp. 184–185.
  15. ^ 鄭可漢 (2020年11月11日). “國民黨不說的孫中山《致蘇俄遺書》” (中国語). 奮起. 2025年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月4日閲覧。
  16. ^ a b "革命尚未成功,同志仍需努力"并非孙中山原话” (中国語). 中国新聞網 (2014年3月11日). 2025年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年1月4日閲覧。
  17. ^ “習近平氏に1人で抗議した「ブリッジマン」、世界各地で行動を触発”. BBC. (2022年10月21日). オリジナルの2025年1月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20250104081142/https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-63327430 2025年1月4日閲覧。 
  18. ^ “彭立发推特出现孙文遗嘱 海内外声援多地开花” (中国語). 自由亚洲电台. (2022年10月7日). オリジナルの2022年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221018110916/https://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/renquanfazhi/hx1-10172022090043.html 2025年1月4日閲覧。 

参考文献

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  • サンケイ新聞社蔣介石秘録 6 共産党の台頭』サンケイ出版、1975年。 NCID BN0405152X 
  • 劉中和 (1984) (中国語). 國父傳. 中華偉人傳記叢書. 益群書店. ISBN 9575520858 

関連項目

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