結城秀延
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛延3年9月4日(1750年10月3日) |
死没 | 享和3年11月9日(1803年12月22日) |
官位 | 正五位下、内舎人、中務少録、縫殿大允、筑後守、蔵人所衆 |
主君 | 桃園天皇→後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇 |
氏族 | 藤原氏流結城氏 |
父母 | 父:藤原秀備、母:藤原秀尚女 |
子 | 秀繁、秀雅 |
概要
[編集]明和4年(1767年)10月14日に橘忠信の補欠として内舎人に補された。同月27日には正六位下・中務少録に叙任された。翌年6月13日には縫殿大允に遷り、同9年(1772年)1月13日には筑後守となった。安永4年(1776年)12月19日に正六位上に叙され、天明7年(1787年)1月13日に蔵人所衆に任じられ、同年2月15日には従五位下に叙された。寛政7年(1795年)1月20日には従五位上に、享和3年(1803年)1月21日には正五位下に叙され、11月9日に死去した[1]。