細井勝久
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文13年(1544年)? |
死没 | 元和6年4月12日(1620年5月14日) |
別名 | 久光、喜八郎、金兵衛 |
戒名 | 道可 |
墓所 | 長敬寺(東京都台東区) |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家康、信康、家康、秀忠 |
父母 | 細井勝明 |
兄弟 | 勝宗、勝久 |
妻 | 成瀬正頼の娘 |
子 | 正成、細井勝光の妻、細田康次の妻、勝吉、長井吉次の妻、須田盛親の妻、水野忠直の妻 |
細井 勝久(ほそい かつひさ)は、戦国時代の武将。徳川家康の家臣。
生涯
[編集]細井氏は三河国幡豆郡細井に由来する一族で、松平清康の代には松平氏に臣従していた。
兄勝宗とともに徳川家康の小姓として仕え、永禄6年(1563年)三河一向一揆鎮圧では上和田砦の戦いで一番槍の武功があった。元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いでは勝宗とともに殿軍を務め、その戦いで戦死した勝宗を討った将兵を討ち、その首級を奪還している。以後は兄の遺領を継ぎ、天正3年(1575年)長篠の戦いで敵3人を討つ武功を立てたほか、鳥居元忠に従った際に一番槍の武功があった。天正5年(1577年)からは松平信康付きとなるが、信康が横死したために一時牢人。天正8年(1580年)家康に嘆願して400俵で再仕官し、のち250石を加増された。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで武将2人を討ちとったほか、織田信雄への使者を務めた。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い、上田城の戦いでは槍大将を務めた。戦後は駿河国内で1650石に加増。慶長15年(1610年)北関東の盗賊鎮定に従事。大坂の陣では両年ともに従軍した。元和6年(1620年)死去。