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純明孝皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
純明孝皇后 閔氏
순명효황후 민씨
大韓帝国皇后(追贈)
別称号 敬顕成徽純明孝皇后(諡号)

出生 1872年11月20日(陰暦10月20日)
李氏朝鮮の旗 李氏朝鮮漢城府
死去 1904年11月5日(陰暦9月28日)
大韓帝国漢城府
配偶者 純宗
氏族 驪興閔氏
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純明孝皇后 閔氏(じゅんめいこうこうごう びんし、スンミョンヒョファンフ ミンシ、朝鮮語表記:순명효황후 민씨、1872年11月20日(陰暦10月20日) - 1904年11月5日(陰暦9月28日))は、大韓帝国第2代皇帝(李氏朝鮮から通算して第27代君主)、純宗の最初の妃。本貫驪興閔氏諡号敬顕成徽純明孝皇后

生涯

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1872年に陽徳坊桂洞で誕生する。1882年に10歳で、2歳年下の世子(後の純宗)と婚礼を挙げ、世子嬪となる。この婚礼は、純宗の生母である王妃閔氏の意向が関わっていたという。義母である王妃も彼女と同じく、驪興閔氏の出身であり、また、異母兄の閔泳翊が、後嗣の無い王妃の実家に養子入りした縁もあった。1897年に大韓帝国が成立し、夫が皇太子となったため、皇太子妃となった。1904年、慶運宮康泰室で病のため、死去。享年32歳。子女は無かった。まだ純宗が即位する前に死去した為、生前皇后になることができなかった。初め京畿道楊州の裕康園に葬られ、1907年に純宗が即位すると裕陵に変わった。1926年南楊州市金谷洞に移され、現在は純宗と共に眠っている。また、諡号も皇太子妃のまま亡くなったため純明妃であったが、純宗即位に伴い皇后に格上げされた。

死亡原因

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李氏朝鮮の医療・疫病史をみると、迷信に基づいた治療が一般的であり、アーソン・グレブストスウェーデン語版の『悲劇の朝鮮』によれば、「牛糞を塗る」「ヒマワリの種を湯がいて食べる」「患者がモモの種を二つに割り、一方に『日』の字、もう一方に『月』の字を書いて一気に飲み込む」「小さなを三匹生きたまま丸飲みする(腹痛に即効)」「重症の場合は焼いたの足を四本食べる」「じっくり沸かしたお湯に四十歳の女性の頭髪を入れて飲む」といった方法が採られており、純明孝皇后は、腹が腫れる病気にかかったため、国内一の名医の診察を受け、腹に悪霊が棲みついたと診断され、城門の戸板をはがして煎じて飲まされ、死亡した[1]

家族

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  • 父:驪恩府院君 忠文公 閔台鎬1834年-1884年。第19代国王粛宗の王妃仁顕王后の父の閔維重の来孫)
  • 母:鎮陽府夫人 鎮川宋氏
  • 異母兄:閔泳翊1860年-1914年。母は坡城府夫人 坡平尹氏。閔妃の義兄の閔升鎬の養子)
  • 義弟:閔泳璘(1873年-1932年。族叔父の閔述鎬の実子。閔泳翊が養子入りしたことで後嗣が無かったため、閔台鎬の養子となった)
  • 義父:高宗
  • 義母:閔妃(明成皇后)
  • 夫:純宗

登場作品

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脚注

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  1. ^ 黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、146頁。ISBN 978-4594042158