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納所文子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
納所弁次郎と文子父娘(1927年)

納所 文子(のうしょ ふみこ、1896年明治29年)4月23日 - 1964年昭和39年)12月17日)は、明治末期から大正初期にかけて、父 納所弁次郎(作曲家・音楽教育家・男声歌手)のピアノ伴奏により数々の唱歌を吹き込んだレコード歌手。

娘は童謡歌手の納所米子

経歴

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1896年、納所弁次郎の長女として東京に生まれる。

1906年(明治39年)頃、天賞堂扱いのアメリカコロムビアにレコードを吹込んだことを皮切りに、初期の日蓄(日米蓄音器商会→日本蓄音器商会)において数々の唱歌レコードを吹き込み、同社の「ドル箱」[1]的存在となる。また、同時期には東洋蓄音器(ラクダ印オリエントレコード)にもレコードを残している。文子が吹き込んだレコードの殆どは、父弁次郎のピアノ伴奏によるものである。

レコード歌手としての活動の傍ら、1910年(明治43年)4月に東京音楽学校選科に入学し、唱歌とピアノを履修。1915年(大正4年)3月に修了。[2]

東京音楽学校修了後、ピアノを研究するためアメリカに渡り、米子を出産。

1920年代に東京の実家に戻った後は、弁次郎とともに子どもたちにピアノを教える。そこには、マンドリン奏者の比留間賢八・きぬ子父娘が顔を出す他、慶応の学生服姿の増永丈夫少年(後の藤山一郎)もピアノを習いに来ていたという。

1927年(昭和2年)~1928年(昭和3年)にかけて、10数年ぶりに日蓄から6面のレコードを新規吹込みし発売する他、1926年(大正15年)~1929年(昭和4年)にかけてはラジオに出演し、18時台の「子供の時間」に独唱・ピアノ伴奏を披露した。(1927年(昭和2年)10月3日、1928年(昭和3年)1月18日には、弁次郎・米子とともに親子三世代で出演を行っている。)

戦後は鎌倉に移住し、ピアノをやめて小唄・長唄を始める。西洋音楽関係者との交流は、唯一比留間きぬ子とのみであったという。

代表曲

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  • 鉄道唱歌(日蓄1210、1909年)
  • 君が代(日蓄1211、1909年)
  • 蛍の光(日蓄1212、1909年)
  • 軍艦マーチ(日蓄1945、1913年)
  • 電車唱歌(アメリカコロムビア(天賞堂扱い)47818、1907年)

脚注

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  1. ^ 森垣二郎『レコードと五十年』12ページ
  2. ^ 『東京音楽学校一覧. 従明治43年至明治44年』( 国立国会図書館デジタルコレクション)、『東京音楽学校一覧. 自大正4年至5年』( 国立国会図書館デジタルコレクション

外部リンク

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