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紇豆陵歩藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紇豆陵步藩から転送)

紇豆陵歩藩(こつとうりょう ほはん、? - 530年)は、中国南北朝時代費也頭の首長[1][2][3]歩蕃とも。河西の人[4][5]

人物

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姚薇元は紇豆陵氏を鮮卑の紇突隣部の後裔とみなしている[6]永安3年(530年)、歩藩は北魏孝荘帝の密命を受けて、爾朱氏の本拠を襲うべく、秀容に入り、晋陽に迫った。爾朱兆高歓を召し出そうとしたが、高歓は賀抜焉過児の進言を受けて爾朱兆を疲弊させるべくゆっくりと進軍し、汾河に橋がなく渡ることができないと言い訳をした。12月、歩藩は爾朱兆を破った。爾朱兆がさらに高歓の救援を求めると、高歓は爾朱兆とともに楽平郡で歩藩を撃破し、歩藩は秀容の石鼓山で斬られた[7][2][4][5][3]

子孫

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歩藩の6代子孫の豆善富墓誌中国河南省洛陽市から出土しており、墓誌は開封市博物館が所蔵している。墓誌によると、歩藩の一族は、北魏末期に高句麗亡命しており、高句麗ではある程度の高位の政治的地位を有していた[8]。その後一族は、高句麗滅亡に際し、に帰属している[8]

豆善富の先祖が高句麗に亡命したのは歩藩の時である。しかし、豆善富の6代先祖と記録されている歩藩は高歓に敗れて死亡したことが史料に記録されている。史料によると、歩藩死亡後、一族は四散して逃亡ており、豆善富の先祖はこの過程で高句麗に亡命したとみられる。北魏末期から北斉建国にかけての動乱期に華北の軍人集団が高句麗に帰附した事例である[9]

脚注

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  1. ^ 氣賀澤 2021, p. 16.
  2. ^ a b 北斉書 1972, p. 4.
  3. ^ a b 北史 1974, p. 212.
  4. ^ a b 魏書 1974, p. 264.
  5. ^ a b 魏書 1974, p. 1663.
  6. ^ 姚 2007, pp. 190–193.
  7. ^ 氣賀澤 2021, pp. 16–17.
  8. ^ a b 이성제 (2015年). “「豆善富 墓誌銘」과 그 一家에 대한 몇 가지 검토”. 인문학연구 27 (慶熙大学). オリジナルの2022年9月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220911020107/https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002005525 
  9. ^ 안정준『6세기 高句麗의 北魏末 流移民 수용과 ‘遊人’』延世大学校国学研究院〈동방학지 170〉、2015年、16-17頁。doi:10.17788/dbhc.2015..170.001 

参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 姚薇元『北朝胡姓考(修訂本)』中華書局、2007年。ISBN 978-7-101-02829-4 
  • “중국소재 고구려금석문”. 東北アジア歴史財団. オリジナルの2022年11月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221124001649/http://contents.nahf.or.kr/id/NAHF.gg.d_0049