コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

神田鐳蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紅葉屋銀行から転送)
かんだ らいぞう

神田 鐳蔵
神田鐳蔵
生誕 1872年8月29日明治5年7月26日
日本の旗 日本愛知県海東郡須成村(現・蟹江町
死没 (1934-12-08) 1934年12月8日(62歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)
職業 金融業
団体 神田銀行
著名な実績 近代日本の黎明期における銀行の創業。
テンプレートを表示

神田 鐳蔵(かんだ らいぞう、1872年8月29日明治5年7月26日)- 1934年昭和9年)12月8日)は、明治から昭和にかけて日本金融界で活躍した実業家。神田銀行創立者。

略歴

[編集]
紅葉屋銀行

愛知県海東郡須成村(現・蟹江町)の酒造り「紅葉屋」の長男として生まれ、名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)を経て、1893年に名古屋株式取引所の仲買人となり株で一儲けしたが破産し上京、1900年に有価証券仲買業「紅葉屋商店」創業、鉄道株で巨富を得る[1][2][3]。同業者の排斥を受けるなか、渋沢栄一が設立した第一銀行の取引を得て、薄利であるため他の仲買人が敬遠していた公債取引で利益を上げた[3][4]。1902年より「紅葉屋英文レポート」を発行して日本の証券を宣伝し、1904年に有価証券金庫銀行必要論を渋沢に陳情し知遇を得る[5]

1910年組織を改め(資)紅葉屋商会とし、翌年には国債証券の保護預りも行う紅葉屋銀行を設立、大蔵省勤務の帝大出を招いて担当させた[6][7]。渋沢の支援で国債輸出などを行なって活躍し(英文レポートが功を奏し一時は外貨輸入の3分の1が神田によるものだった[8])、「証券界の鬼才」と呼ばれたが[1][2]、株仲間からはその凄腕ぶりから兜猶(兜町ユダヤ人)とあだ名された[9]。一方で、逗子開成中学校が1910年の七里ヶ浜ボート遭難事故で大きな負債を抱え廃校の危機に陥ったときには、負債の一部を肩代わりして同校校主となり、その窮状を救った[2][10]。1912年に財界視察のため欧米諸国を巡遊[10]。1914年に第2次大隈内閣が成立すると非募債主義から公債の用命がなくなり、政府筋とは疎遠となる[11]

1918年に銀行名を神田銀行と改め、1920年の農工貯蓄銀行破綻の際には負債を全額引き受け多くの預金者を救った[12]。不動産や保険業でも成功したが1921年の金融恐慌により業績不振となり1927年に破産した[1][2][13]

破綻直前の1926年には、京都浮世絵商・松木善右衛門から浮世絵を買い上げ、神田コレクションとしたが[14][15]、破産により流出し、現在は平木浮世絵美術館が所有する。

親族

[編集]

実家は明治5年で創業300年になると言われる酒造りの老舗で[16]、父親の清三郞は家業のほか地元では儒者としても知られていた[8]

妻のさわ(1887年生)は、日本女子大学校を卒業[10]。 岳父の清水百太郎は渋沢の第一銀行名古屋支店支配人だったが神田銀行に移り、幹部を務めた[17][18]。妻の弟の清水景吉は鐳蔵が買収した東華生命保険の重役を務めた[19]

妻としたのは何人かいたようで、39歳のときには名家出身の妻を求める募集広告も出したという[20]。庶子の神田俊二は俳優。

参考文献

[編集]
  • 紅葉會 編『神田鐳藏翁 : 風雲六十三年』紅葉會、1953年5月。 NCID BA45028662 

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 神田 鐳蔵(読み)カンダ ライゾウ- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年(コトバンク
  2. ^ a b c d 神田鐳藏 金融界の風雲児 - 蟹江町観光まちづくりポータルサイト
  3. ^ a b 神田鐳蔵君」湯浅久米策(編)『成功者と其運勢 : 致富要訣』春江堂、1910年
  4. ^ 紅葉屋 神田鐳蔵」桑村常之助『財界の実力』金桜堂、1911年
  5. ^ (資)紅葉屋商会『紅葉屋十年志』([1911.11凡例)]渋沢社史データペース
  6. ^ 三好海三郎」『人事興信録』第4版、1915年(大正4年)1月
  7. ^ 紅葉屋銀行頭取 神田鐳蔵」遠間平一郎 (妖星)『財界一百人』中央評論社、1912年
  8. ^ a b 神田鐳蔵君」渡辺慎治(編)『天才乎人才乎 : 現代実業家月旦』 東京堂、1908年
  9. ^ 世間から猶太人と呼ばれて居る 神田銀行頭取 神田雷藏」 湯本城川『財界の名士とはこんなもの?. 第1巻』事業と人物社、1924年
  10. ^ a b c 神田鐳蔵『人事興信録』第8版、1928年(昭和3年)7月
  11. ^ 神田鐳蔵」吉野鉄拳禅『時勢と人物』大日本雄弁会、1915年
  12. ^ 一小酒屋の小伜から身を起して遂に三千萬圓の巨財を贏ち神田銀行を設立して最近拾三萬人を援つた 株界の大立物 神田鐳藏君」『大正新成功譚』東海実業社、1922年
  13. ^ 神田銀行遂に社員銀行を脱退 - 中外商業新報1928年3月5日 (リンク先は神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  14. ^ 新任のご挨拶 - 公益財団法人渋沢栄一記念財団『青淵』No.812 2016年11月号
  15. ^ 浮世絵年表 - 浮世絵文献資料館
  16. ^ 神田鐳藏君」松下長重 (編)『東洋成功軌範 : 校定』 中央教育社、1911年
  17. ^ 麻島昭一『本邦信託会社の史的研究: 大都市における信託会社の事例分析』日本経済評論社、2001年、318ページ
  18. ^ 清水百太郎」手島益雄『名古屋百人物評論』日本電報通信社名古屋支局、1915年
  19. ^ 清水景吉」『人事興信録』第8版 、1928年(昭和3年)7月
  20. ^ 神田鐳蔵の求婚広告野依秀一 (一寸法師) 編『破顔一笑』実業之世界社、1911年

外部リンク

[編集]