糸賀喜一
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糸賀 喜一(いとが きいち、1904年7月1日[1] - 1984年[2])は、日本の政治家。茨城県稲敷郡美浦村の村長を1959年から1979年まで5期務めた。日本中央競馬会(JRA)美浦トレーニングセンターの誘致に尽力した。
生涯
[編集]- 1904年7月1日、茨城県稲敷郡木原村に農家の長男として生まれる[1]。
- 1922年4月、徴兵検査で甲種合格[1]。
- 1924年11月30日、騎兵第13連隊に入隊[1]。
- 1926年、善行証書を受けて除隊[1]。
- 1931年7月、愛国生命保険に入社し、保険外交員となる[1]。
- 1945年7月、応召し騎兵第27連隊に入営[1]。
- 1946年4月、木原村長選挙に立候補し、落選[1]。
- 1949年5月、木原村農業協同組合組合長[1]。
- 1951年
- 1952年、相互金庫金融に入社[1]。
- 1955年5月、木原村長選挙に立候補し、落選[1]。
- 1959年4月30日、美浦村長選挙に立候補し、初当選[1]。
- 1962年4月17日、肺結核予防協会より、結核予防への貢献から総裁賞を受賞[1]。
- 1963年4月20日、美浦村長選挙に立候補し、再選[1]。
- 1967年4月28日、美浦村長選挙に無投票で3選[1]。
- 1971年4月25日、美浦村長選挙に無投票で4選[1]。
- 1973年9月、霞ヶ浦問題研究会を結成[1]。
- 1975年
- 1977年2月3日、茨城県国民年金協議会会長[1]。
- 1984年、死去[2]。
人物
[編集]美浦村長の2期目、農業の後継者減少から村の存続に危機感を抱き、村への企業誘致を茨城県に働きかけた[2]。
1960年代に新東京国際空港(現在の成田国際空港)の建設地が検討された際には、住民らの反対を受けて多くの首長らが尻込みする中で「航空機の騒音は文化の音だ。この騒音なくして地域開発は成り立たない!」と主張し、敢えて建設推進の旗幟を鮮明にしたが、「美浦空港」は実現しなかった[3][4]。
その後トレーニングセンター建設の話が持ち上がると、村活性化の好機と捉えた糸賀はJRAに対し用地買収は村が責任を持って行うことを約し、誘致に成功した[5]。1967年3月に当時のJRA理事長・清井正と会談[1]。8月、JRAと美浦トレーニングセンター用地取得に関する念書に調印[1]。12月には、美浦トレーニングセンターの基本契約締結に至った[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 水上文男 編『野人村長一代 糸賀喜一回顧伝』タナカ出版部、1979年5月14日。ISBN 9784380700088。 NCID BN04328022。
- 冨山章一「わがまちが生んだ偉人 糸賀 喜一」(PDF)『筑波経済月報』2018年7月号、筑波総研株式会社、2018年7月1日、2019年8月8日閲覧。