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粟田奈勢麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
粟田奈勢麻呂
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 神護景雲元年8月29日767年9月26日
別名 奈勢万里、奈世麻呂、奈世万里、奈世万呂
官位 従四位下遠江守
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇
氏族 粟田朝臣
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粟田 奈勢麻呂(あわた の なせまろ)は、奈良時代貴族官位従四位下遠江守

経歴

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近江少掾主税助を経て天平20年(748年従五位下叙爵する。のち越前守に任ぜられ、聖武朝末の天平感宝元年(749年東大寺が越前国に寺領を求めた際、墾田地の選定に携わっている。

天平感宝元年(757年藤原仲麻呂紫微内相に任ぜられると同時に正五位下に叙せられ、間もなく要職である左中弁に任ぜられる。天平宝字2年(758年淳仁天皇即位に伴って正五位上に昇叙されると、淳仁朝では右京大夫司門衛督などを歴任し、天平宝字6年(762年従四位下遠江守に至るなど、藤原仲麻呂政権下で順調に昇進を果たした。またこの間の天平宝字5年(761年)には礼部少輔藤原田麻呂らと共に保良宮に派遣され、班給宅地使(官人に宅地を分配支給する役)を務めている[1]

天平宝字8年(764年藤原仲麻呂の乱終結後の10月に遠江守を解任されており(後任は下毛野多具比)、乱によって失脚したと見られる[2]神護景雲元年(767年)8月29日卒去。最終官位散位従四位下。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平宝字5年正月21日条
  2. ^ 『日本人名大辞典』
  3. ^ 『大日本古文書(編年文書)』24巻76頁
  4. ^ 『大日本古文書(編年文書)』2巻431頁
  5. ^ 『大日本古文書(編年文書)』5巻562頁

参考文献

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