篠崎三郎
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名前 | ||||||
カタカナ | シノサキ サブロウ | |||||
ラテン文字 | Shinosaki Saburo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
慶應義塾大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
慶應BRB | ||||||
代表歴 | ||||||
1940[1] | 日本 | 1 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
篠崎 三郎(しのさき さぶろう、生没年不明)は、日本の元サッカー選手。大学生の時にサッカー日本代表としての出場経験があり、現役時代のポジションはフォワード。慶應義塾大学経済学部卒業。
選手の経歴
[編集]篠崎は慶應義塾体育会ソッカー部に在籍し、1937年の全日本蹴球選手権大會(現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、慶應義塾大学の初優勝を成し遂げた。彼はまた、慶應義塾大学の選手と卒業生で構成される母校の慶應BRBでもプレイし、津田幸男、二宮洋一、笠原隆と共に、1939年と1940年の天皇杯でも優勝した(以後、天皇杯は戦争で1941-1945年まで中断となる)。
代表歴
[編集]1940年6月16日、慶應義塾大学に在籍する学生の時に、サッカー日本代表の選手として、フィリピン代表との試合に初出場した[1]。この試合は日本にとって1936年ベルリンオリンピック以降で最初の試合であり、第二次世界大戦の影響により1940年代に行われた唯一の日本の国際Aマッチ試合である。
出場大会
[編集]- 紀元二千六百年奉祝東亜競技大会 (1940年)
試合数
[編集]- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1940)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1940 | 1 | 0 | ? | ? | ? | ? |
通算 | 1 | 0 | ? | ? | ? | ? |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1940年06月16日 | 兵庫県 | 甲子園南運動場 | フィリピン | ○1-0 | 竹腰重丸 | 奉祝東亜競技大会 |
脚注
[編集]- ^ a b c サッカー日本代表データベース
外部リンク
[編集]- 篠崎三郎 - National-Football-Teams.com
- サッカー日本代表データベース
- サッカー日本代表データベース(英文)