箭内亙
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(箭内亘から転送)
人物情報 | |
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生誕 |
1875年7月17日 日本福島県西白河郡 |
死没 | 1926年2月10日 (50歳没) |
学問 | |
研究分野 | 東洋史(モンゴル史) |
箭内 亙(やない わたり、1875年(明治8年)7月17日 - 1926年(大正15年)2月10日)は、日本の東洋史家、東京帝国大学教授。号は尚軒。モンゴル史研究に業績を残した。次男は歴史学者の箭内健次。
来歴
[編集]福島県西白河郡泉崎村出身。1889年(明治22年)福島県立安積中学校に入学、1894年(明治27年)3月卒業の後、仙台市の第二高等学校を経て、東京帝国大学文科卒。1907年に第一高等学校講師となる。1908年満州朝鮮歴史地理調査部部員となり、白鳥庫吉の指導で調査にあたる。1910年(明治43年)に教授となる。1919年(大正8年)東京帝大東洋史学科助教授、ついで1925年から教授を務めた。
1926年2月10日、胃潰瘍のため死去する。享年52歳。従四位に叙せられる[1][2]。
著書
[編集]単著
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[編集]共著
[編集]- 箭内亙、小川銀次郎、藤岡継平『東洋史』杉本翰香館、1905年6月。NDLJP:814444。
- 白鳥庫吉監修、箭内亙・稲葉岩吉・松井等共撰 編『満洲歴史地理』 第1巻、南満洲鉄道〈歴史調査報告 第1〉、1913年9月。NDLJP:950622。
- 白鳥庫吉監修、松井等・箭内亙・稲葉岩吉共撰 編『満洲歴史地理』 第2巻、南満洲鉄道〈歴史調査報告 第1〉、1913年5月。NDLJP:950624。
共編
[編集]- 野々村戒三・箭内亙共撰 編『歴史教科書』 東洋編、冨山房、1903年12月。
- 野々村戒三・箭内亙共撰 編『歴史教科書』 西洋編、冨山房、1904年1月。
- 『東洋歴史表解』(箭内亙・古川啓蔵共編)六盟館、1906年11月。NDLJP:776127。
東方学会
[編集]論文
[編集]- 「元史に対する悪評に就て」『東洋学報』第1巻第1号、東洋文庫、1911年1月、100-104頁、NAID 120006514677。
- 「渤海の建州と元の建州」『東洋学報』第1巻第2号、東洋文庫、1911年6月、79-81頁、NAID 120006514695。
- 「九連城の古名に就いて」『東洋学報』第1巻第3号、東洋文庫、1911年10月、389-395頁、NAID 120006514710。
- 「兀良哈三衛名称考」『東洋学報』第4巻第1号、東洋文庫、1914年3月、77-99頁、NAID 120006514789。
- 「成吉思汗の満洲経略に関する二三の研究」『東洋学報』第4巻第2号、東洋文庫、1914年7月、197-210頁、NAID 120006514798。
- 「元初史実解疑三則」『東洋学報』第5巻第2号、東洋文庫、1915年6月、282-292頁、NAID 120006514825。
- 「元朝怯薛考」『東洋学報』第6巻第3号、東洋文庫、1916年10月、368-412頁、CRID 1050001338853152256。
- 「海都の叛いた年次」『東洋学報』第8巻第2号、東洋文庫、1918年5月、274-284頁、NAID 120006514892。
- 「元の世祖忽必烈に就いて(1918年度調査部講演会要旨)」『東洋学報』第8巻第3号、東洋文庫、1918年9月、477-477頁、NAID 120006514905。
- 「元朝斡耳朶考(上)」『東洋学報』第10巻第1号、東洋文庫、1920年5月、93-111頁、NAID 120006514926。
- 「元朝斡耳朶考(中)」『東洋学報』第10巻第2号、東洋文庫、1920年6月、185-221頁、NAID 120006514931。
- 「元朝斡耳朶考(下)」『東洋学報』第10巻第3号、東洋文庫、1920年11月、349-383頁、NAID 120006514940。
- 「遼代の漢城と炭山」『東洋学報』第11巻第3号、東洋文庫、1921年9月、414-424頁、NAID 120006514958。
- 「池内博士の「元代の地名開元の沿革」を読む」『東洋学報』第13巻第1号、東洋文庫、1923年5月、70-103頁、NAID 120006515004。
脚注
[編集]外部リンク
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