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筏経法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
筏経法
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄12年9月10日[1]1569年10月19日
改名 吉川経法→筏経法
別名 一本経孝[2]
通称:源四郎[1]
戒名 高巌院月山宗輝[1]
官位 民部少輔掃部助
主君 吉川経基国経元経興経元春
氏族 藤姓吉川氏庶流筏氏
父母 父:吉川経基[3]
兄弟 吉川国経[3]吉川夫人尼子経久室)[3]
女(笠間刑部少輔室)[3]吉川四郎[1]
女(小河内清信室)[1]石経守[1][4]
女(綿貫忠澄室)[1]国衙光経[1][4]
女(多賀某室)[1]、女(三須清成室)[1]
江田経純[1][4]、女(波根泰次室)[1]
経法、女(気比大宮司某室)[1]
女(鷹司兼輔継室)[1]
山県信政の娘[注釈 1]
経直[5]春古[2]
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筏 経法(いかだ つねのり)は、戦国時代武将安芸国国人吉川氏一門。父は吉川氏当主である吉川経基

生涯

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安芸国国人吉川氏当主である吉川経基の六男として生まれる[3]安芸国山県郡筏津[注釈 2]を本拠とし、「筏」の名字を名乗った[6]

永禄12年(1569年9月10日[1]に死去[1]

その後の筏氏は、江戸時代には岩国領主・吉川氏の家臣として続いた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 筏経法の正室である山県信政の娘は法名を「心了光月珠円」といい、天正13年8月26日1585年9月19日)に死去。
  2. ^ 現在の広島県山県郡北広島町筏津

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 40.
  2. ^ a b 大朝町史 上巻 1978, p. 191.
  3. ^ a b c d e 近世防長諸家系図綜覧 1966, pp. 39–40.
  4. ^ a b c 光成準治 2016, pp. 328, 吉川氏系図.
  5. ^ 木村信幸 2016, p. 53.
  6. ^ 木村信幸 2016, p. 46.

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 大朝町史編纂委員 編『大朝町史 上巻』1978年3月。全国書誌番号:81001285 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 木村信幸「戦国後期における吉川氏の権力構成―親類衆・奉行人を中心にして―」 光成準治編著『シリーズ・織豊大名の研究4 吉川広家』戎光祥出版、2016年11月、44-99頁。初出は『史学研究』第259号、2008年。