筏経法
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 永禄12年9月10日[1](1569年10月19日) |
改名 | 吉川経法→筏経法 |
別名 |
一本経孝[2] 通称:源四郎[1] |
戒名 | 高巌院月山宗輝[1] |
官位 | 民部少輔、掃部助 |
主君 | 吉川経基→国経→元経→興経→元春 |
氏族 | 藤姓吉川氏庶流筏氏 |
父母 | 父:吉川経基[3] |
兄弟 |
吉川国経[3]、吉川夫人(尼子経久室)[3]、 女(笠間刑部少輔室)[3]、吉川四郎[1]、 女(小河内清信室)[1]、石経守[1][4]、 女(綿貫忠澄室)[1]、国衙光経[1][4]、 女(多賀某室)[1]、女(三須清成室)[1]、 江田経純[1][4]、女(波根泰次室)[1]、 経法、女(気比大宮司某室)[1]、 女(鷹司兼輔継室)[1] |
妻 | 山県信政の娘[注釈 1] |
子 | 経直[5]、春古[2] |
筏 経法(いかだ つねのり)は、戦国時代の武将。安芸国の国人・吉川氏の一門。父は吉川氏当主である吉川経基。
生涯
[編集]安芸国の国人・吉川氏当主である吉川経基の六男として生まれる[3]。安芸国山県郡筏津[注釈 2]を本拠とし、「筏」の名字を名乗った[6]。
その後の筏氏は、江戸時代には岩国領主・吉川氏の家臣として続いた。