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第3回東京音楽祭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第3回東京音楽祭(だいさんかいとうきょうおんがくさい、The 3rd Tokyo Music Festival International Contest[1])は、3回目の『東京音楽祭』である。1974年6月30日帝国劇場にて世界大会(ファイナル)が開かれ、ルネ・シマールカナダ)がグランプリに輝いた。

概要

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海外からのエントリーは27ヵ国から全301曲[2]。日本からは、プログラムには20曲と書かれているが、これは国内大会に残った数で、前年までの選考方法などを考え併せると(「東京音楽祭#大会方式」参照)、エントリー数はこの十倍前後はあると推計される[3](但し第3回大会の具体的な数値は三大新聞には載らず)。国内大会は一般部門(ファイナル出場者選考会)と新人部門とを分けて行われた。

  • 5月16日(木)、国内大会(新人部門)(日比谷公会堂)。「ヤングの祭典」とサブタイトルがついた。新人大会を別日程で開催するのも、最優秀新人賞である「シルバーカナリー賞」の設定も第3回大会が初。エントリー64曲から事前選考で絞られた20曲(歌手20組)が出場、シルバーカナリー賞候補の5組が選出され、5月25日の国内大会に進んだ[4]。大会の模様は2日後の5月18日(土)午後2時半から、TBS系テレビで1時間半に亘り中継録画放送された。
  • 5月25日(土)[5]午後3時~、国内大会(日劇)[6]。事前選考で絞られた出場20組から[7]、ファイナル出場者であるゴールデンカナリー賞3組(五木ひろしザ・ピーナッツ布施明)を選出[8]。シルバーカナリー賞(第3回大会ではまだファイナル出場権は無い)に麻生よう子[9]。大会は同日午後3時から、2時間に亘りTBS系テレビ・ラジオで同時公開生中継された。

世界大会は、セミファイナル・ファイナルの2日に分けて行われた。

  • 6月29日(土)午後1時~[6]、セミファイナル(帝国劇場)。海外参加21曲。ファイナル進出の10曲を選出。
  • 6月30日(日)午後7時~[6]、ファイナル(帝国劇場)。出場13曲(海外10曲+国内3曲)。午後7時から2時間に及んだ決勝大会はTBSテレビとラジオで同時公開生中継された[10]。但し当日の新聞のテレビ・ラジオ欄によると、TBSテレビの放送は午後7:00-8:55、TBSラジオは午後6:25-9:10[11]

セミファイナル・ファイナルの演奏:高橋達也と東京ユニオン、クリエイト管弦楽団。コーラス:ウィルビーズ。[12]

司会者

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スペシャルゲスト

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ゲスト

  • フランク・シナトラ Frank Sinatra(特別審査員) /ファイナルではシナトラは参加者が歌い終わった8時過ぎに会場入り、現場では審査せず、「シナトラ賞」授賞の時に初めて一般ファンの前に姿を見せた[10]
  • シャーリー・バッシー Shirley Bassey(ゲストシンガー) /ファイナルでは大会と授賞式の間にシャーリー・バッシーのショーが行われた[10]。またその前日、セミファイナル終了後の同じ帝国劇場で、午後7時からシャーリー・バッシーのコンサートが行われている[13]
  • 読売新聞(1974年5月22日・夕刊)ではマリー・ラフォレも審査員と報じられたが、プログラムには彼女の名は記載されていない。

審査員

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審査委員長(Chairman)[14]

審査員(Judges)

  • アウグスト・アルグエロ Augusto Alguero[15][16](FIDOF会長[17])スペイン
  • 蘆原英了 Eiryo Ashiwara(音楽評論家)
  • タキス・キャンバス Takis Cambas(アテネ音楽祭会長)ギリシア
  • サルヴァトーレ・T・キャンティア Salvatore T. Chiantia(MCAミュージック社長)アメリカ
  • ジョーン・コリンズ Joan Collins(女優) イギリス[18]
  • デニス・グレーザー Denise Glaser(テレビプロデューサー)フランス
  • ダニー・オドノヴァン Danny O'donovan(ダニーオドノヴァンエンタープライズ社長)イギリス
  • 岡野弁 Tadasu Okano(ミュージックラボ社長[19]
  • フランシス・プレストン Francis Preston(BMI社長)アメリカ
  • レイ・N・タナカ Ray N. Tanaka(ハワイ・ミュージシャン・ユニオン会長)ハワイ

特別審査員(Guest Judge)

  • フランク・シナトラ Frank Sinatra(歌手)アメリカ /この回で、最優秀歌唱賞として[20]フランク・シナトラ賞が特別に設けられたが、これはシナトラの審査で授与された[5]。賞の内容はプログラムには「トロフィー」としか書かれていないが、実際には「シナトラからのご褒美」として、授賞式のステージ上で本人からルネ・シマールに250万円相当の腕時計が手渡された[21]。ちなみに他の賞の賞金は、大賞(グランプリ、1名):300万円、金賞(1名):100万円、銀賞(2名):60万円、銅賞(3名):30万円で、夫々にトロフィーが付く[22]。それ以外の賞は、プログラムには「トロフィー」のみ記載。

世界大会エントリー セミファイナル

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 海外参加21曲(出場順)※ジルベール・モンターニュは不参加のため実際は海外からは20曲

曲順 エントリー歌手 参加楽曲 ファイナル
1 ティファニー
Tiffanie
「愛のテレフォン」
Et ce Soir tu Telephones
出場 フランス
2 サイモン&ベッティーナ
Simon Butterfly & Bettina Simon
「18-19-20」
Eighteen-Nineteen-Twenty
出場 西ドイツ
3 チャーリー・ジェームス
Charlie James
「詩が終るまで」
Ce ca ma Chanson
イギリス
4 ホアン・バウ
Juan Bau
「ソブレ・エル・ヴィエント」
Sobre el Viento
スペイン
5 メルビン・リード
Melveen Leed
「ユール・シー」
You'll See
アメリカ(ハワイ)
6 マリー・トラヴァース
Mary Travers
「ライト・オブ・ディ」
Light of Day
出場 アメリカ
7 ルネ・シマール
Rene Simard
ミドリ色の屋根[23]
Non ne Pleure pas(泣かないで)[24]
出場 カナダ
8 クリスティーナ
Cristina
(Krystyna Konarska)
「ワルシャワの星空」
Varsovie
ポーランド
9 ザ・スリー・ディグリーズ
The Three Degrees
「天使のささやき」
When Will I See you Again
出場 アメリカ
10 カレル・ゴット
Karel Gott
「翔ける愛」
Let Give Love Place to Flourish
(Let Love Spread Far And Wide)[25]
(Ať láska má kde kvést)
チェコスロバキア
11 ゴールド&シルバー
Gold & Silver
(Janson(Colin Rickards)& Penny Gold)
「アップ・オーバー・マイ・ヘッド」
Up over my Head
出場 イギリス
12 アラン・オディ
Alan O'day
「ギフツ」
Gifts
アメリカ
13 フレダ・ペイン
Freda Payne
「イッツ・ユアーズ・トゥ・ハヴ」
It's Yours to Have
出場 アメリカ
14 ジルベール・モンターニュ
Gilbert Montagne
「オートゥール・ドゥ・ヌ」
Autour de Nous
不参加 フランス
15 スーザン・アントン
Susan Anton
「ラウンド・アンド・ラウンド」
Round and Round
アメリカ
16 ノエリータ
Noelita
「サベドリア」
Sabedoria
ブラジル
17 ザ・ギミックス
The Gimmicks
「オール・トゥギャザー・ナウ」
All Together Now
出場 スウェーデン
18 ザ・サーカス・バンド
The Circus Band
「アレルヤ!世界救済」
Got to Save the World
フィリピン
19 パティ・キム
Patty Kim
「愛は永遠に」
사랑은 영원히
Forever, my Love
出場 韓国
20 ムスリム・マゴマエフ(マガマエフ)[26]
Muslim Magomaev
Муслим Магомаев
「悪魔の車輪」[27]
(「悪魔の車輪」は誤訳という見解あり)
Chortovo Koleso[28]
Чёртово колесо
出場 ソビエト
21 パトリシア・ポーリン
Patricia Paulin
「愛のロマンス」
Je suis Romantique
フランス
  • プログラムでは、曲名と出演者名のラテン文字表記は、すべて大文字で為されている。従ってフランス語の母音上のアクサン記号はすべて省略されている。
  • チャーリー・ジェームスは女性。
  • ザ・サーカス・バンドは、歌手10人・楽器奏者5人から成るユニット。メンバーの内、後にソロシンガーとなり1978年第1回マニラ音楽祭でグランプリ受賞のハッジ・アレハンドロは国民的歌手。同年韓国で開催されたソウル国際歌謡祭でもグランプリを獲得。バジル・バルディーズ、ティリー・モレノもフィリピンの大人気歌手。
  • アメリカ(ハワイ)から参加のメルビン・リードは、参加曲をつくったウクレレの名手ハーブ・オータとともに出演。

世界大会エントリー  ファイナル

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 海外10曲+国内3曲(出場順)

曲順 エントリー歌手 参加楽曲 受賞
1 サイモン&ベッティーナ
Simon & Bettina
「18-19-20」
Eighteen-Nineteen-Twenty
TBS賞 西ドイツ
2 五木ひろし 「別れの鐘の音」 銅賞
外国審査員団賞
日本
3 ザ・ギミックス
The Gimmicks
「オール・トゥギャザー・ナウ」
All Together Now
TBS賞 スウェーデン
4 布施明 「積木の部屋」 銀賞 日本
5 ゴールド&シルバー
Gold & Silver
(Janson(Colin Rickards)& Penny Gold)
「アップ・オーバー・マイ・ヘッド」
Up over my Head
TBS賞 イギリス
6 ルネ・シマール
Rene Simard
ミドリ色の屋根[23]
Non ne Pleure pas(泣かないで)[24]
グランプリ
フランク・シナトラ賞
カナダ
7 マリー・トラヴァース
Mary Travers
「ライト・オブ・ディ」
Light of Day
Sole che Nasce Sole che Muore
TBS賞 アメリカ
8 ティファニー
Tiffanie
「愛のテレフォン」
Et ce Soir tu Telephones
フランス
9 ザ・ピーナッツ 「愛のゆくえ」 銀賞 日本
10 フレダ・ペイン
Freda Payne
「イッツ・ユアーズ・トゥ・ハヴ」
It's Yours to Have
銅賞
歌唱賞
アメリカ
11 ザ・スリー・ディグリーズ
The Three Degrees
「天使のささやき」
When Will I See you Again
金賞 アメリカ
12 パティ・キム
Patty Kim
「愛は永遠に」
Forever, my Love
銅賞 韓国
13 ムスリム・マゴマエフ(マガマエフ)[26]
Muslim Magomaev
「悪魔の車輪」[27]
(意見として「観覧車」の誤訳の可能性あり)
Chortovo Koleso[28]
棄権
TBS賞
ソビエト
  • 作曲賞 - A. ババジャニャン[29](ソビエト)/「観覧車」(歌:ムスリム・マゴマエフ。「悪魔の車輪」)の作曲者。
  • 編曲賞 - フランシス・レイ(フランス)/「愛のテレフォン」(歌:ティファニー)の作・編曲を担当。[30]
  • 2回大会同様、女性歌手が目立つ大会となった。
  • サイモン&ベッティーナは、サイモン・バタフライと実妹ベッティーナ・サイモンのデュオ。参加曲の作詞はハワード・バーンズ Haward Barnes だが、作曲は日本の加瀬邦彦、編曲は東海林修。
  • ザ・ギミックスは、男性楽器奏者6人・女性ヴォーカル2人から成るユニット。参加曲はドラムスのステファン・メラー Stefan Möller の作詞作曲。
  • ゴールド&シルバーは、女性ペニー・ゴールドと男性コーリン・シルバーのデュオ。
  • マリー・トラヴァースは、元 P.P.M (ピーター・ポール&マリー) のメンバー。
  • 金賞のザ・スリー・ディグリーズは女声3人のユニット。[31]
  • 「東欧のプレスリー」チェコの国民的大スター、カレル・ゴットの来日により、ヨーロッパからも多数の取材陣が押し寄せた。
  • 特別審査員フランク・シナトラが12年ぶりの来日である[5]ことも世間の耳目を集めた。
  • グランプリとシナトラ賞をダブル受賞したルネ・シマールが変声期前の13歳の少年であることが話題を呼んだ[32]
  • ソ連の男性歌手ムスリム・マゴマエフ(マガマエフ)はバクーアゼルバイジャン)の芸術家一家に生まれ育ち、アゼルバイジャン音楽院、更にイタリアで学んだのち、バクーのオペラ劇場にデビュー、オペラから現代歌謡まで幅広くこなせる歌手として、当時既にソ連では人気抜群で、多くのヒット曲があった[33]。母国でも評判を取っていた参加曲 Чёртово колесо は慣用句的に「観覧車」という意味だが、プログラムには大誤訳のタイトル「悪魔の車輪」が堂々と印刷され、『音楽の友』1974年9月号(p.22-23)の記事でも「…作曲賞は「悪魔の車輪」を作ったソ連の…」とそのまま引用されている。のみならず、ラテン文字表記のタイトルは CHORTOVO KOLESO と書くべきところを CHORTVA KALESO と印刷され、作詞のエフゲニー(イェフゲニー)・エフトゥシェンコは E.(またはY.)エフトゥシェンコと表記されるはずが「作詞:A・エフタシエンコ A. Eftushenko」となり、作曲・編曲のアルノ・ババジャニャンは A. Babadjanyan ではなく「作曲・編曲:A・ババジョニアン A. Babadjonyan」で、前掲の『音楽の友』の記事でも「…ソ連の A. ババジョニアン」と踏襲されている。世界大会と称するにもかかわらず、設営側の語学力の貧弱さを露呈した形となったが、日本でも知る人ぞ知るで、翻訳家のウサミナオキはこのタイトルに「遊園地の回覧車」という訳語を充てている[34]。/マゴマエフ歌唱「観覧車」(YouTube)[1]
  • なお観覧車を意味するFerris wheelsはロシアにおいては“devil's wheels”つまり悪魔の車輪、という例えられ方も存在する。また不気味な岩の集成体が観光地にもなっているスヴェルドロフスク州にはChortovo Gorodishcheは、Devil's Settlement, Devil's Mound, Devil's Cityと呼ばれ、悪魔の丘などの異名を持つことで知られ、マゴマエフのプロモーション映像も本人が悪魔的な赤と黒のマントを翻して登場していることから、誤訳ではない、という見方もある。
  • 当時指揮を担当した長洲忠彦によれば「マゴマエフは途中(ファイナル)棄権した」という回想を語っていたが、出場者に音楽祭後配られる海外版カラーパンフレットには歌唱シーンが印刷されており、受賞もしていることから、棄権はしていないのではないか、という見解も存在する。

世界大会出場以外の国内大会参加アーティスト

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国内新人大会 (シルバーカナリー賞選出大会)

5月16日(木)、日比谷公会堂にて開催。新人大会の別日程開催は初の試みで、第3回大会では「ヤングの祭典」とサブタイトルがついた。エントリー全64曲から、事前選考で絞り込まれた20曲(歌手20組)が出場、シルバーカナリー賞候補の5組が選出され、5月25日の国内大会に進み、シルバーカナリー賞1組が最終決定される[4]。主な出場者:

他(合計20組)
国内大会 (ゴールデンカナリー賞選出大会)

5月25日(土)午後3時~、東京・日劇で開催された[6]。ファイナル出場者であるゴールデンカナリー賞には、五木ひろしザ・ピーナッツ布施明の3組が選ばれた[35]。このほかの国内大会(ゴールデンカナリー賞選出大会)出場者は以下の通り[7]

麻丘めぐみいしだあゆみ尾崎紀世彦欧陽菲菲金井克子北島三郎小柳ルミ子西城秀樹沢田研二チェリッシュちあきなおみ野口五郎南沙織森進一山本リンダ由紀さおり和田アキ子

シルバーカナリー賞には、麻生よう子『逃避行』が選ばれた[9]。最優秀新人賞としての「シルバーカナリー賞」創設年の初受賞となったが、第3回大会ではまだ「シルバー」には世界大会出場権は無い。

関連項目

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脚注

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  1. ^ プログラムの表記に倣った。
  2. ^ プログラム。また「27ヵ国から全301曲」の数値は、毎日新聞(夕刊)1974年5月6日、朝日新聞(夕刊)1974年5月17日、毎日新聞(夕刊)1974年7月3日にも記載あり。
  3. ^ 東京音楽祭#大会方式」の、放送番組を使った国内選考方式は第2回大会まで。また第3回大会に関しては、読売新聞が1974年2月5日付の夕刊で「第三回東京音楽祭国内大会(五月二十五日)に出場する歌手二十人が次の通り決まった。…」と報じている。即ち、倍率のある選考を経ての結果である。
  4. ^ a b 新人大会は2日後の5月18日(土)午後2時半からTBS系テレビで中継録画放送されたが、同日の朝日新聞(20面)、読売新聞(12面)のテレビ・ラジオ欄の番組解説に大会概要が書かれている(内容は両紙共ほぼ同じ)。
  5. ^ a b c プログラム。
  6. ^ a b c d 朝日新聞(夕刊)1974年5月17日。
  7. ^ a b 読売新聞(夕刊)1974年2月5日。
  8. ^ この3組は、プログラムでは歌手名の五十音順に、五木-ザ・ピーナッツ-布施の順に掲載されている。
  9. ^ a b 読売新聞(夕刊)1974年5月29日。
  10. ^ a b c 『音楽旬報』1974年7月11日。
  11. ^ 当日の新聞ラジオ欄の放送時刻表には、「東京音楽祭世界大会 F. シナトラ・ショー▽世界大会生中継▽東京音楽祭をふりかえって 久米宏」と書かれている。午後6時台は、シナトラの歌の録音を適宜流しながら、これから始まる音楽祭の紹介をしていたものと思われる。「"シナトラ賞"授賞の時に初めて一般ファンの前に姿を見せた」(『音楽旬報』1974年7月11日)という証言に鑑みれば、この時刻に生中継のシナトラ・ショーが行われていることは絶対にあり得ないからである。
  12. ^ a b プログラムによる。
  13. ^ 朝日新聞(夕刊)・1974年5月17日、読売新聞(夕刊)・1974年6月28日。
  14. ^ 審査員一覧はプログラムによった。プログラムはセミファイナル・ファイナル(6月29日・30日)両日用。
  15. ^ 音楽出版社の経営に専念する以前は作曲も手掛けていたが、プログラムによると1906年生まれなので、同姓同名の1934年生まれの作曲家(代表作「エーゲ海の真珠」(Penelope))とは別人。
  16. ^ プログラム p.16 では Augsto Auguero と印刷されている。
  17. ^ プログラムでは「名誉会長」ではなく「会長」。
  18. ^ ハリウッド映画にも出演しているが、プログラムでは England となっている。
  19. ^ プログラムでは「編集長」ではなく「社長」となっている。
  20. ^ 『音楽の友』1974年9月号、P.22-23「激戦! プロのための音楽祭 第三回東京音楽祭」。
  21. ^ 『音楽旬報』1974年7月11日「"二大賞"を独占、ルネ少年 「第三回東京音楽祭世界大会」決勝」、『音楽の友』1974年9月号 p.22-23「激戦! プロのための音楽祭 第三回東京音楽祭」。
  22. ^ 賞金額はプログラムによる。
  23. ^ a b 日本語(作詞:さいとう大三、作曲:村井邦彦、編曲:馬飼野康二)。プログラムのラテン文字表記も MIDORI-IRO NO YANE となっている。ファイナルの結果を扱った新聞・雑誌のうち、読売新聞だけがこの曲は「フランス語で」歌われたと報じたが(1974年7月2日・夕刊)、プログラムにはフランス語タイトルもフランス語訳詞者の名も記載されていない。
  24. ^ a b このタイトルはプログラムには印刷されていない。
  25. ^ プログラムには Let Love Spread Far and Wide と印刷されている。審査員としてビルボード発行人が招待されるのが恒例になっているが、特集が組まれるアメリカ・ビルボード紙の発表では Let Give Love Place to Flourish 表記。
  26. ^ a b プログラムには「マガマエフ」と印刷されている。ロシア語では力点のない「オー」の字は「ア」と発音するので、間違いではない。
  27. ^ a b Чёртово колесоは、慣用句的に「観覧車」と訳すのが正しい。
  28. ^ a b プログラムでは CHORTVA KALESO と誤植されている。
  29. ^ プログラムでは、A・ババジョニアン/A. Babadjonyan と誤記されている。
  30. ^ 各賞は『音楽旬報』1974年7月11日、日外アソシエーツ『音楽・芸能賞事典』によった。
  31. ^ 出場者のメンバー構成等はプログラムに拠った。
  32. ^ 『音楽旬報』1974年7月11日。また『週刊明星』1974年7月21日号(集英社)P.180-181「東京音楽祭グランプリのルネの人気が大爆発!」からは、受賞後のルネ少年の「カワイイ」故の日本の若いファンの熱狂ぶりがうかがえる。が、「いまの唱法では持続性に疑問符のつく歌手だが、本大会では迫力を伴っていた」(毎日新聞(夕刊)1974年7月3日)のような醒めた評価ももちろん存在した。
  33. ^ マゴマエフの略歴は、『NHK ロシア語入門』1975(昭和50)年1月号(日本放送出版協会、当時のラジオ放送用テキスト) p.2 (文:ウサミナオキ)、およびプログラムから確認可能だが、プログラムでは「アゼルバイジャン共和国」が「アゼルバヤン州」、バクーが「バク」、と書かれるなど、全体に不自然な表現が多い。
  34. ^ 『NHK ロシア語入門』1975(昭和50)年1月号(日本放送出版協会)、P.2。『ロシア語入門』は当時のNHKラジオ講座の番組名。
  35. ^ プログラム。また読売新聞(夕刊)・1974年5月29日にも記載あり。