第一次木津川口の戦い
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(第一次木津川口海戦から転送)
第一次木津川口の戦い | |
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「難波船軍図」(村上水軍博物館寄託) | |
戦争:戦国時代 (日本) | |
年月日:天正4年7月13日(1576年8月7日) | |
場所:木津川口 | |
結果:瀬戸内水軍衆の勝利、石山本願寺への補給路確保 | |
交戦勢力 | |
毛利水軍 小早川水軍 村上水軍 宇喜多水軍 雑賀衆[1] |
織田水軍 |
指導者・指揮官 | |
乃美宗勝 村上元吉 村上景広 村上吉充 児玉就英 戸川秀安(宇喜多氏) 他、計15名[1] |
真鍋貞友[2] 沼間伝内[3] 他、計8名[4] |
戦力 | |
約700~800隻 | 約200[1]~300隻[4] |
損害 | |
不明 | 壊滅的打撃 |
第一次木津川口の戦い(だいいちじきづがわぐちのたたかい)は、天正4年(1576年)に毛利氏と織田氏との間に起こった海戦である。戦闘は主に大阪湾木津川河口で行われた。
戦国時代、織田信長と本願寺顕如との間で十年にわたって争われた石山合戦における緒戦の一つ。毛利方の水軍の使用する焙烙火矢の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、石山本願寺への兵糧など物資の搬入という目的を毛利方が果たす結果となった[1][4][5]。
概要
[編集]7月15日(『信長公記』)、毛利水軍が石山本願寺への兵糧搬入をはかると、織田水軍はこれを木津川口で阻止しようと試みるが、焙烙火矢をしかけられて船は焼かれ、応戦した8名の武将の内7名が討死するなど多くの戦死者を出し、毛利氏が勝利を得たとされる[4][6]。
村上元吉以下15名の注進状によると、7月12日、淡路島の岩屋を出発した毛利水軍は、泉州の貝塚に渡り、紀州の雑賀衆と同意して、13日、堺津から木津河口に進んだところ、井楼を組みあげた数艘の大船とそれを囲む警護船200余艘の織田水軍と接触、戦闘が開始された。戦いは13日から14日の早朝にかけておこなわれ、毛利水軍が織田勢を破り、大船をすべて焼き崩す戦果をあげ[1][4][7]、織田勢に包囲された本願寺に兵糧を入れることに成功した[1][8]。
永禄11年(1568年)の上洛以後、敵城を包囲中の織田主力部隊が、敵の大集団に、外側から封鎖を強行突破をされた希有の例であるため、信長に強烈な打撃を与えたと思われる[9]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 村上元吉外十四名連署注進状.
- ^ 谷口 2010, p. 454.
- ^ 谷口 2010, p. 334.
- ^ a b c d e 信長公記第九巻七月十五日.
- ^ “愛媛)村上海賊「木津川口の戦い」描いた絵図公開 今治”. 朝日新聞デジタル (2019年4月24日). 2020年8月6日閲覧。
- ^ 宇田川 1986, p. 127.
- ^ 宇田川 1986, p. 128.
- ^ 河合 1984, p. 224.
- ^ 藤本 1993, p. 253.
参考文献
[編集]- 信長公記 第九巻七月十五日
- 村上元吉外十四名連署注進状
- 宇田川武久 著「毛利氏の水軍編成」、河合正治 編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年。
- 河合正治『安芸 毛利一族』新人物往来社、1984年。
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4-642-01457-1。
- 藤本正行『信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像―』JICC出版局、1993年。