第一次中東戦争の作戦と戦いの一覧
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第一次中東戦争の作戦と戦いの一覧は、1948年から1949年にかけてイギリス委任統治領パレスチナ/イスラエルにおいて発生した第一次中東戦争における軍事作戦および戦闘の一覧である。
イギリスによるパレスチナ委任統治終了およびイスラエル独立宣言まで
[編集]イギリスによるパレスチナ委任統治終了前に、イスラエル建国を見越してあらかじめユダヤ人勢力の支配地域を強化する"ダレット計画"に基づき、1948年4月頃から組織的・計画的な軍事作戦がハガナーによって進められた。
作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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エルサレムの戦い | 1948年2月 - 3月 | エルサレム | エルサレムの実効支配権をめぐりユダヤ人武装勢力ハガナーとアラブ聖戦軍が交戦。イスラエル民兵はアラブ側の包囲に対して補給路の新設により対抗。 |
ハシュメド作戦 | 1948年3月30日 | アシュドッド-ヤブネ間 | ハガナーがアシュドッド-ヤブネ間の補給路を確保 |
ナフション作戦 | 1948年4月5日 - 16日 | エルサレム近郊 | ハガナーのギヴァティ旅団およびパルマッハ部隊がテルアビブからエルサレムへの補給路(エルサレム回廊)を確保するためエルサレム近郊の制圧を試みた。 |
ミシュマール・ハ=エメクの戦い | 1948年4月5日 - 9日 | ミシュマール・ハ=エメク | アラブ解放軍がハイファからジェニンの補給路に配置されたキブツミシュマール・ハ=エメクを襲撃し、ハガナー部隊と交戦。 |
ラマト・ヤハナンの戦い | 1948年4月12日 - 16日 | ラマト・ヤハナン | アラブ解放軍の指示を受けたイスラム教ドゥルーズ派勢力とハガナーが交戦し、ハガナー側が勝利。この後、ドゥルーズ派勢力はイスラエル側と同盟を結んだ。 |
ハレル作戦[1][2] | 1948年4月16日 - 21日 | エルサレム近郊 | パルマッハの戦闘部隊が再編されハレル旅団となり、エルサレムへの補給路確保に再投入された。 |
ハイファの戦い | 1948年4月21日 - 23日 | ハイファ | ハガナーおよびパルマッハ部隊がハイファ市内を制圧 |
マンシーヤの戦い | 1948年4月25日 - 27日 | マンシーヤ | ハメツ作戦の一部(前段階)としてエツェル(イルグン)部隊がヤッファ近郊のマンシーヤを襲撃、これによりパレスチナから撤退中のイギリス軍の介入を招いた。 |
ハメツ作戦[3] | 1948年4月27日 - 5月13日 | ヤッファ近郊 | ギヴァティ旅団、アレクサンドロニ旅団およびエツェル(イルグン)部隊がヤッファおよび近郊の村落を制圧 |
イェブシ作戦[4] | 1948年4月22日 - 5月3日 | エルサレム近郊 | エツィオニ旅団およびハレル旅団がエルサレム西部近郊の制圧を試みた。 |
イフタハ作戦[5] | 1948年4月28日 - 5月23日 | ガリラヤ東部ツファット | パルマッハ部隊がガリラヤ東部ツファット周辺を制圧。この後、参加したパルマッハ部隊がイフタハ旅団として再編された。 |
マタテ作戦[6] | 1948年5月3日 - 4日 | ガリラヤ湖周辺 | イフタハ作戦の一部として、イーガル・アロンが率いるパルマッハ部隊がガリラヤ湖からフラ湖にかけての周辺を制圧した |
マッカビ作戦[7] | 1948年5月8日 - 16日 | ラトルン周辺 | エルサレムへの補給路(エルサレム回廊)を確保するため、ギヴァティ旅団とハレル旅団がラトルン周辺の集落を制圧。 |
ジョバル作戦 | 1948年5月9日 | クファル・カラ | ミシュマール・ハ=エメク周辺からアラブ勢力の目をそらすため、アレクサンドロニ旅団がワディ・アラ渓谷のクファル・カラを攻撃した作戦。 |
バラク作戦[8][9] | 1948年5月10日 - 15日 | ガザ地区北部 | エジプト軍の進軍を妨害するためギヴァティ旅団がガザ地区北部を制圧。 |
ギデオン作戦[10] | 1948年5月11日 | ベイト・シェアン周辺 | トランスヨルダン軍(アラブ軍団)の進軍を妨害するためゴラニ旅団がベイト・シェアン周辺を制圧。 |
メディナ作戦 | 1948年5月13日 | カフル・サバ[11] | アレクサンドロニ旅団がアラブ系村落カフル・サバを攻撃し、地元民兵およびアラブ解放軍と交戦。 |
ベン=アミ作戦 | 1948年5月13日 - 14日 | アッコ周辺 | カルメリ旅団がガリラヤ西部地域およびアッコを制圧。 |
キルション作戦 | 1948年5月13日 - 18日 | エルサレム | エツィオニ旅団がイギリス軍撤退時にエルサレム市内を制圧。 |
イギリス軍撤退・イスラエル独立宣言から第一次休戦期間まで
[編集]1948年5月14日にダヴィド・ベン=グリオンによってイスラエル独立宣言が発せられると、これを承服できない周辺アラブ連盟加盟国はイスラエル勢力圏への攻撃を開始した。
北部
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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ゲシェルの戦い | 1948年5月14日 - 22日 | ナハライム、ゲシェル | イラク軍とトランスヨルダン軍(アラブ軍団)がアラブ解放軍との合流を目指して進軍し、ゴラニ旅団と交戦。 |
キナロット渓谷の戦い | 1948年5月15日 - 21日 | ゴラン高原 | シリア軍が南下し、サマフ、デガニアでゴラニ旅団やパルマッハ部隊と交戦。 |
ナメル作戦 | 1948年5月22日 - 23日 | タントゥーラ | アレクサンドロニ旅団がハイファ近郊のアラブ人村落タントゥーラを攻撃し制圧した。 |
エレツ作戦[12] | 1948年5月28日 - 30日 | エズレル平野 | イツハク作戦の準備としてゴラニ旅団がギルボア山からエズレル平野南部にかけての地域に進攻。 |
イツハク作戦 | 1948年6月1日 - 4日 | ジェニン | ゴラニ旅団、カルメリ旅団がジェニンに駐留していたイラク軍と交戦。 |
ミシュマール・ハ=ヤルデンの戦い | 1948年6月10日 | ミシュマール・ハ=ヤルデン | シリア軍がモシャブミシュマール・ハ=ヤルデン周辺を制圧。 |
エン・ゲブの戦い | 1948年6月10日 | エン・ゲブ | シリア軍がキブツエン・ゲブを攻撃。 |
中央部
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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エルサレムの戦い | 1948年5月15日- | エルサレム | エツィオニ旅団、ハレル旅団がエルサレム市内および周辺のアラブ勢力/ヨルダン軍(アラブ軍団)と交戦。 |
ラトルンの戦い | 1948年5月18日 - | ラトルン周辺 | イギリス軍がラトルンの要塞から撤退後、マッカビ作戦でハレル旅団が要塞を一旦占拠したが、5月18日にアラブ軍団がラトルン周辺を制圧。この後イスラエル側は何度もエルサレムへの要衝であるラトルン制圧を試みたが失敗し、エルサレムへの別の補給ルートとして『ビルマ・ロード』の建設が開始された。 |
ビン=ヌン・アレフ作戦 | 1948年5月25日 | ラトルン | エルサレムへの補給路(エルサレム回廊)を確保する目的でラトルンのアラブ軍団とイスラエル軍第7旅団が交戦したが占領失敗。 |
ビン=ヌン・ベート作戦 | 1948年5月30日 - 31日 | ラトルン | ラトルンのアラブ軍団とイスラエル軍第7旅団が再度交戦したが占領失敗。 |
ヨラム作戦 | 1948年6月8日 - 9日 | ラトルン | イスラエル側がラトルンの占領を試みた3回目の攻撃で、ハレル旅団とパルマッハのイフタハ旅団がラトルンを攻撃したが占領失敗。 |
ゲゼルの戦い | 1948年6月10日 | ゲゼル | アラブ軍団がキブツゲゼルを攻撃し占領。 |
南部
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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クファル・ダロムの戦い | 1948年5月13日 - 15日 | クファル・ダロム | エジプト軍とムスリム同胞団の部隊がガザ地区のユダヤ人キブツクファル・ダロムを攻撃。 |
ニリムの戦い | 1948年5月15日 | ニリム | エジプト軍がキブツニリムを攻撃し、ネゲヴ旅団と交戦。 |
ヤド・モルデハイの戦い | 1948年5月19日 - 24日 | ヤド・モルデハイ | エジプト軍がキブツヤド・モルデハイを攻撃し、ハガナーおよびパルマッハ戦闘員と交戦。 |
ファラオ作戦 | 1948年5月25日 - 26日 | ガザ地区 | ネゲヴ旅団がガザ地区内のエジプト軍部隊を攻撃。 |
プレシェット作戦 | 1948年5月29日-6月3日 | アシュドッド | ギヴァティ旅団、ネゲヴ旅団とイスラエル空軍がアシュドッドのエジプト軍を攻撃。 |
第一次ネグバの戦い | 1948年6月2日 | ネグバ | エジプト軍がキブツネグバを攻撃し、ギヴァティ旅団の戦闘員と交戦。 |
ニッツァニムの戦い | 1948年6月6日 - 10日 | ニッツァニム | エジプト軍がキブツニッツァニムを攻撃し占領。 |
第一次休戦期間
[編集]第一次休戦期間は公式には1948年6月11日から7月9日となっている。イスラエル側ではこの間に、ハガナーやパルマッハといった武装組織が再編されイスラエル国防軍の体制が整えられた。
作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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アルタレナ号事件 | 1948年6月20日 | テルアビブ | 国防軍への武器引き渡しに応じなかったエツェル(イルグン)と国防軍部隊が交戦し、イルグンの輸送船アルタレナ号が沈没。 |
第一次休戦期間終了から第二次休戦期間まで(十日間の戦い)
[編集]北部
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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デケル作戦 | 1948年7月9日 - 18日 | ガリラヤ、ナザレ | ガリラヤ地域のアラブ解放軍に対しゴラニ旅団、カルメリ旅団、第7旅団の混成部隊が攻撃をかけ、ナザレなどの地域を占領。 |
ブロシュ作戦 | 1948年7月9日 - 18日 | ミシュマール・ハ=ヤルデン | ミシュマール・ハ=ヤルデン周辺を占領しているシリア軍部隊をゴラニ旅団、カルメリ旅団、オデッド旅団の混成部隊が攻撃。 |
中央部
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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ダニー作戦 | 1948年7月9日 - 18日 | テルアビブ周辺(リッダ、ラムラ)、ラトルン | ハレル旅団、イフタハ旅団、第8旅団、キルヤティ旅団などからなるイスラエル軍部隊がテルアビブ周辺およびラトルンの制圧を試み、リッダ、ラムラの制圧に成功したがラトルン制圧には失敗。 |
ベテック作戦 | 1948年7月11日 - 12日 | ロッシュ・ハアイン | アレクサンドロニ旅団がロッシュ・ハアインのイラク軍部隊を攻撃。 |
マンデルバウム門の戦い | 1948年7月9日 - 19日 | マンデルバウム門 | エルサレム近郊マンデルバウム門周辺でイスラエル軍部隊とヨルダン軍(アラブ軍団)が交戦。 |
ケデム作戦 | 1948年7月16日 - 17日 | 東エルサレム | エツィオニ旅団が東エルサレム占領を試みたが失敗。 |
南部
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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アン=ファー作戦 | 1948年7月8日 - 15日 | ネゲヴ砂漠 | ギヴァティ旅団、ネゲヴ旅団がネゲヴ砂漠に進攻しイラク・スワイダンのテガート要塞を攻撃。 |
第二次ネグバの戦い | 1948年7月12日 | ネグバ | エジプト軍がキブツネグバを再度攻撃し、ギヴァティ旅団の戦闘員と交戦。 |
ベエロト・イツハクの戦い | 1948年7月15日 | ベエロト・イツハク | エジプト軍がキブツベエロト・イツハクを攻撃。 |
侵略者の死作戦 | 1948年7月16日 - 18日 | ネゲヴ砂漠 | ギヴァティ旅団、ネゲヴ旅団、第8旅団がネゲヴ砂漠に進攻。 |
第二次休戦期間
[編集]第二次休戦期間は公式には1948年7月18日からとなっている。
作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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ショテル作戦[13] | 1948年7月24日 - 26日 | ハイファ南部 | ハイファからテルアビブへのルートを確保する目的でゴラニ旅団、カルメリ旅団、アレクサンドロニ旅団の混成部隊がハイファ南部の"リトルトライアングル"と呼ばれる地域のアラブ人村落を攻撃[14]。 |
GYS作戦 | 1948年7月27日 - 8月2日 | ネゲヴ北部 | エジプト軍に包囲されていたネゲヴ砂漠北部のイスラエル側支配地域への補給ルートを確保する目的でギヴァティ旅団、イフタハ旅団、ネゲヴ旅団の混成部隊がエジプト軍と交戦。 |
ベッツァー作戦 | 1948年8月22日 - 8月28日 | テルアビブ周辺 | キルヤティ旅団によって実施された、兵役拒否者および脱走兵を逮捕する作戦。 |
アヴァク作戦 | 1948年8月23日 - 10月21日 | ネゲヴ北部 | エジプト軍に包囲されていたネゲヴ砂漠北部のイスラエル側支配地域への継続的な補給を目的とした、イスラエル空軍部隊とイフタハ旅団の作戦。 |
第二次休戦期間後から終戦まで
[編集]北部
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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ヤール作戦 | 1948年10月22日 | マナラ | 上ガリラヤのキブツマナラの支配権を巡りカルメリ旅団とアラブ解放軍が交戦。 |
ハイラム作戦 | 1948年10月24日 - 29日 | 上ガリラヤ | ゴラニ旅団、カルメリ旅団、オデッド旅団、第7旅団の混成部隊が上ガリラヤ地域のアラブ解放軍およびシリア軍と交戦。 |
ダビデ作戦 | 1948年11月29日 - 30日 | レバノン | レバノンの法人あるいは個人が所有していた船舶(元、ナチスドイツの政府専用ヨットであったグリレ)が、レバノン海軍によってハイファ攻撃に使用されるとの情報により、イスラエル側工作員がグリレにリムペットマインを仕掛け爆破した作戦。 |
中央部
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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マシュラット219の戦い | 1948年9月24日 | ベン・シェメン近郊 | キルヤティ旅団とヨルダン軍(アラブ軍団)が交戦。 |
ハ=ハル作戦[15] | 1948年10月19日 - 24日 | エルサレム南西部 | ハレル旅団がエルサレム南西部のアラブ人村落およびエジプト軍部隊を攻撃。南部戦線のヨアヴ作戦と連動して実施された。 |
イェケヴ作戦 | 1948年10月19日 - 21日 | エルサレム南部 | エツィオニ旅団がエルサレム南部のエジプト軍部隊を攻撃。南部戦線のヨアヴ作戦と連動して実施された。 |
南部
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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ヨアヴ作戦 | 1948年10月15日 - 22日 | ネゲヴ北部 | ネゲヴ砂漠北部のエジプト軍支配地域へのギヴァティ旅団、イフタハ旅団、ネゲヴ旅団、オデッド旅団、第8旅団の混成部隊による大規模攻撃作戦。 |
エグロフ作戦 | 1948年10月15日 - 20日 | ネゲヴ北部 | ヨアヴ作戦の一部として実施された、イスラエル空軍によるエジプト軍への空爆作戦。 |
モシェ作戦 | 1948年10月21日 | ベエルシェバ | ヨアヴ作戦の一部として実施された、ネゲヴ旅団によるベエルシェバ占領作戦。 |
シュモネ作戦 | 1948年11月9日 | ネゲヴ砂漠 | イラク・スワイダンのテガート要塞に対する8回目の攻撃で、第8旅団の戦闘工兵部隊が要塞内に侵入し陥落させた戦い。 |
ロト作戦 | 1948年11月23日 - 25日 | ネゲヴ東部、アラバ渓谷 | ベエルシェバから死海方面ソドム山に向かってネゲヴ旅団が進攻。 |
アサフ作戦 | 1948年12月5日 - 7日 | ネゲヴ西部 | ベエルシェバからガザ地区へのルートを ゴラニ旅団と第8旅団の混成部隊が制圧。 |
ホレヴ作戦 | 1948年12月22日 - 1949年1月7日 | ネゲヴ西部 | ネゲブ西部全域のエジプト軍部隊をガザ地区に後退させることを目的としたイスラエル側の大規模作戦。 ゴラニ旅団・ネゲヴ旅団・ハレル旅団・アレクサンドロニ旅団・第8旅団が作戦に投入された。 |
ヒスル作戦 | 1948年12月28日 | イラク・アルマンシアヤ | ホレヴ作戦の後、イラク・アルマンシアヤおよびアル・ファルージャに残存していたエジプト軍部隊に対しアレクサンドロニ旅団が攻撃を掛けたが大敗し多くの死傷者を出した。 |
イツフ作戦 | 1949年3月2日 - 9日 | ネゲヴ北東部、死海沿岸 | エジプトとの停戦後、アレクサンドロニ旅団およびイスラエル海軍部隊が死海沿岸のエン・ゲディ、マサダ周辺を制圧。 |
ウブダ作戦 | 1949年3月5日 - 10日 | シナイ半島 | エジプトとの停戦後、イスラエル軍部隊がシナイ半島を南下し現在のエイラートまでの地域を制圧。作戦の最後にアブラハム・アダンが「インクの旗」を掲げ、第一次中東戦争が事実上終結した。 |
航空輸送作戦など
[編集]作戦または戦闘の名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
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ハシダ作戦 | 1948年3月31日 - 4月1日 | チェコスロバキア | ダレット計画の緒戦となるナフション作戦の準備のため、米国からリースしたダグラス DC-4で戦略物資を輸送した作戦。 |
バラク作戦 | 1948年3月 - 8月 | チェコスロバキア | アヴィア S-199戦闘機23機を含む様々な武器の購入および移送。 |
ヴェルヴェッタ作戦 | 1948年9月 - 12月 | チェコスロバキア、ユーゴスラビア | スピットファイア戦闘機60機を極秘にイスラエルに移送する作戦。 |
脚注・出典
[編集]- ^ Walid Khalidi (1992). All that remains: the Palestinian villages occupied and depopulated by Israel in 1948. Institute for Palestine Studies. p. 398. ISBN 0-88728-224-5
- ^ Bennî Môrîs (1987). The Birth of the Palestinian Refugee Problem: 1947-1949. Cambridge [Cambridgeshire] ; New York : Cambridge University Press. p. 113. ISBN 0-521-33028-9
- ^ Morris, page 100. 'All That Remains' lists 8 villages/towns captured. e.g., al-'Abbasiyya (pop 5,650 including 150 Jews), Bayt Dajan (pop 3,840), Kafr 'Ana (pop. 3,020 inc 220 Jews), Salama (pop. 6,730), Yazur (pop. 4,030) etc..
- ^ Morris, page 113. 'aimed ... at wresting from Arab control further areas in and around Jerusalem'
- ^ Morris, page 102. 'The conquest of Arab Safad, the areas main town, was the linchpin of the campaign.'
- ^ Morris, page 121. 'a sub-operation designed to clear out the Arab population from the Jordan Valley area south of Rosh Pinna between the north-south road and the Jordan River.'
- ^ Morris, page 113. All That Remains. Page 276. Bayt Mahsir (pop. 2,400), 'the newly formed Har'el Brigade of the Palmach. The History of the Haganah states that "this village was not occupied easily; but was attacked by Palmach troops for three nights, and it was not occupied until the morning of 11 May."
- ^ Morris, pages 126–127. 'The objective of the operation was: "To deny the enemy a base... creating general panic and breaking his morale... It can be assumed that delivering a blow to one or more of these centers [i.e., Majdal, Isdud or Yivna will cause the wandering [i.e., exodus] of the inhabitants of the smaller settlements of the area. This outcome is possible especially in view of the wave of panic that recently swept over [the Arabs of] the country."' 'Mortaring almost invariably preceded each ground assault.'
- ^ 'All That Remains' lists 20 towns and villages e.g. pages 83/82. Al-Batani al-Gharbi (pop. 980) 'By the end of May the two brigades had succeeded in occupying over thirty villages and "clearing" the area of tens of thousands of people.'. It mentions the Givati Brigade, the Negev Brigade and one attack involving the IZL. Commander of Operation: Shimon Avidan.
- ^ 'All That Remains' list 11 villages captured by the Golani Brigade during this operation.
- ^ 現在のクファル・サバ近郊のアラブ系村落
- ^ All That Remains. Page 335. 'a number of villages in the vicinity of Jinin'.
- ^ Morris, page 213. Alexandroni, Carmeli, Golani Brigades.
- ^ The "little triangle" refers to the villages Jaba', Ijzim, and 'Ayn Ghazal.
- ^ Daṿid Ṭal (2004). War in Palestine, 1948: Strategy and Diplomacy. Routledge. p. 407. ISBN 978-0-7146-5275-7
参考文献
[編集]- Tal, David (2004). War in Palestine, 1948: strategy and diplomacy (Illustrated ed.). Routledge. ISBN 978-0-7146-5275-7.