竹田定琮
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竹田 定琮(たけだ さだみず、寛政4年12月29日(1793年2月9日) - 文政12年2月19日(1829年3月23日)は江戸時代後期の儒学者、教育者。福岡藩の藩儒竹田家の第7代当主。号は榛斎。字(あざな)は器甫。通称は定之進[1]。
経歴
[編集]福岡藩の藩校である、修猷館の第2代総受持(館長)[2]を務めた竹田家第5代当主竹田定矩(復斎)の子として生まれる。寛政11年(1799年)[3]8歳の時に父定矩が死去し、叔父である修猷館第3代総受持[2]を務めた竹田家第6代当主竹田定夫(梧亭)の養子となる[1]。
菅茶山に学び、帰藩後に修猷館で教え、後に教授となる。養父定夫の福岡藩藩主黒田家の家譜編修をたすけた[1]。